(コリントⅠ 1:18)  大谷唯信牧師



「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」



  今日三人の子供達の信仰告白とバプテスマが行われる。すべてが信仰の出来事、教会の出来事、そして神の出来事である。創造主なる父なる神と独り子イェス・キリストの十字架の贖いの御業が私達の教会に与えられている。目に見えないが今やこの出来事を通して大いなる神の祝福が教会にまた子供とその御家族に豊かに注がれ、この世のものではなく神の永遠の愛に包まれているのである。


「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる(信ずる)者には神の力である」。さらに主は語られる「この言葉は、あなたにはなはだしく近くにあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行う事ができる」と神が保障して下さっておられるのだ。


御言葉をただ聞くだけの者となってはならない。信じて行動するのだ。信仰に立とうとするイスラエルの民に主は次のように語っておられる、「あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべての事において、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、再び集め、たとい天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。あなたを栄えさせ、数を増し、先祖たちよりも多くされるであろう」(申命記30:2-5)と驚くべき祝福を約束されているのである。


この神は今も私達教会に働いて下さっておられるのである。信仰は気分や感情の思いではない。信じる意志決断から始まるのだ。信じる信仰の出来事にしない限り何事も起こらない。しかし信ずる信仰によって一歩を踏み出す時、主は御聖霊となって私達に命を与え神の力となって下さるのである。
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by oume-akebono | 2014-07-27 20:00 | 週報メッセージ


(ヨハネによる福音書6:63) 大谷唯信牧師



「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。」



 何と多くの人が自分の中の弱さ、恐れ、不安から否定的な思いの中に閉じ込められ苦しんでいることか。それは肉の自分に頼って生きているからである。肉の自分とは、自分が出来るとか出来ないとか、自信がある、ない等を感じている自分の事である。前向きな、やる気、希望、喜び等はこれも肉の自分であるが、ある程度までは前向きに自分を押し出す力となってくれる。


しかし肉の自分では長く続かない。何故なら困難や問題にぶつかり苦しくなるとすぐに折れ、目標が高かった人ほどショックが大きく失望感、挫折感に押さえ込まれてしまうからだ。このように肉に虚勢を張ってもすぐ疲れてしまうのだ。自分に感じ意識している部分はすべて肉の自分であることを覚えておこう。「肉は何の役にも立たない」のである。本当に自分を生かしたければ肉の自分に頼らず「霊」の自分に頼るべきである。「人を生かすのは霊であって肉は何の役にも立たない」のである。


この世の人は何の役にも立たない肉の人に頼って生きている。これしか知らないからである。肉の自分が全てと絶対的に言えるほど信じ込んでいるのだ。子供の時からそのように教えられて来たからである。この世の教育は常に相手に勝つための教育であり肉の自分を訓練し強化しこの世の栄誉を得る方向へ向けられてきた。「共に生きる」等、口では言っているがやっていることは「まず自分のため」のエゴ教育になってしまっている。


では人を生かす霊とは何だろう。ほとんどこの世は気がついていないのだ。本来の人間は肉の部分よりはるかに深く広い霊的存在なのである。霊とは自分で感じる肉の自分以外の自分、これが霊の自分である。肉の自分で探そうとするからわからない。肉の自分の中にはないからだ。主はヒントを出された。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり命である」と。御言葉を信じ自分の霊の中に宿らせる時、霊の自分が目覚め「私ではなくキリストがわたしの内に生きている」霊の人にして下さるのである。
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by oume-akebono | 2014-07-20 20:00 | 週報メッセージ


(エペソ人への手紙4:16)  大谷唯信牧師



「キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。」



私達は教会にあっても家庭にあっても、また職場や自分個人にあってもどうであろうか。今一つ何か足りない…かと言って不自由しているわけではないが何か一つ、自分の心に、そして互いの関係においてもっと満たされたもの、成長に向けての確信というものがあれば…否、あるべきではないか、等の思いを持ってはいないだろうか。もし持っているとすればそれにすぐに取り組むべきである。


ほとんどの人が夫や妻、自分や教会での自分また隣人に対して何となく感じていながら、目先のしなければならない日常の仕事、奉仕に追われ、その感じている「何となくのこと」は後まわしになるのである。取り組もうにも「何となくのこと」であるから、どう切り出し、どう取り組んでよいかも漠然としていてわからない。時に話しかけたり、プレゼントをあげたり、何か出来ることをしてあげようとしたり…、しかし手応えもその場限りで空しい、不安が続く。
 

心の問題である。人間は物質的、肉的存在であると同時に、もっと深い霊的存在なのだ。どんなに物質的、肉的に満たされても霊性が満たされなければ結局は空しいのである。何不自由ない恵まれた家庭、職場にあってもこの空しさをかかえている人は多い。これ自体は決して悪いことではない、良いことなのだ。しかし何で満たすかが問題であろう。


わたしの体や心がわたしなのではない。わたしという霊である。体や心はそれを入れる器なのだ。「神は霊であるから礼拝する者も霊とまことをもって礼拝すべき」とあるが、この礼拝こそが霊の充電となり、上の御言葉が教会の中で実現してくるのである。「まず神の国と神の義とを求めよ」も同じ意味である。そうすれば必要はすべて添えて与えられる。第一のものを第一にした時、分かってくる神からの知恵である。 
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by oume-akebono | 2014-07-13 20:00 | 週報メッセージ

教会と私達の信仰


(箴言 24:11)     大谷唯信牧師



「死地にひかれゆくものを助け出せ、滅びによろめきゆく者を救え。」



私達は福音のメッセージを聞くときに、いつの間にか一つの講演を聞くのと同じように聞いていないだろうか。聖書の学び会も一般の読書会のような単なる文化会の一つのようになっていないかと、自ら問うて見る事も大切である。


私達青梅あけぼのキリスト教会は主の恵みによって育まれ、ある程度教会としての形が見えるようになってきた。これは主の憐みである。特に毎週の皆様の生きた証しが素晴しい。私達は弱く未熟である。だから良いのだ。夫婦の事、親子の事、あらゆることが率直に語られている。主の働きによって、想像以上だ。関係が修復され家庭が平和になった。元気になった。正社員にされた。恵みはいろいろある。


特に嬉しいのは家族の救いである。今、子供たち3人がバプテスマの準備をしている。信仰継承は私達の祈りの第一にしなければならない。私達は弱く未熟であるが故に主は備えて下さり、これを教会として下さったのだ。教会には神の命があり、救いがあり、私達の想いをはるかに超えている力がある。教会は主が頭となって未熟で弱い私達を御自分の体とし、世に対する神の救いの偉大な御計画の実践を私達教会に託されたのである。


私達は神に選ばれたのだ。さらに、まだクリスチャンになっておられないあなたにも、神の選びが向けられ招かれていることを知って欲しい。神は全人類の救いのために私達やあなたを必要とされ、御自分の救いのプロジェクトのメンバーとして、用いたいのである。


私達は教会をキリスト教的文化団体としてはならない。教会は常にその分岐点にある。この世は神の栄光を失い、闇に包まれ、人々は罪の滅びの海に投げ出されている事を知ろう。独り子イエスによって救いの御業は既に成し遂げられ完成している。「私達は夜通し働きましたが何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。との信仰の一歩を持つ教会となろう。
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by oume-akebono | 2014-07-06 20:00 | 週報メッセージ