(マタイ16:25)       大谷 唯信 牧師


「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」 


教会は本来、罪や病で苦しんでいる人々が救いに導かれ、神の愛に生きる喜びが得られる活気的な場と言えよう。ところが今日、その力を失っている教会が多く見受けられるのは残念な事である。一番の原因はそこでのクリスチャンが福音を客観的に教理として受け入れそれで良いと思っている事だ。聖書を外側から見て知的に学び理解している。その教理が正統かどうかを議論し、賛成したり異議を唱えたりで学び満足してしまうのである。だがそこにはすでに命はない。


パウロの語る教理は自分の直面した体験から出ているのである。決して一般論を述べているのではない。自分の体験した命を証ししているのだ。私達もこれを追体験しようではないか。イェスのいのちが溢れ出るにはどうしたらよいのか。自分で取り組むべきであろう。「受けるより与えるが幸いなり」の一つの御言葉でもただ覚えればよいというものではない。まずやってみる事だ。しかしある程度できたからと言って満足しそこに留まってはいけない。それでは教訓程度である。もっと、とことんやってみる事だ。


自分がいかに貧しい者かがわかると思う。悟りとは自分の貧しさに気づく事である。ブックマン博士はこれに気づくツールとして四つの言葉を提示して自分を妥協なく吟味する事をすすめている。絶対正直、絶対純潔、絶対愛、絶対無私である。人はこの世ではある程度買い被って生きるのも仕方がないのだがいつの間にかその気になって自分が見えなくなるのが常である。しかし、絶対の光に照らし出された時は全く手も足も出なくなる。嵐の海に溺れたなら思わず「助けて!」と叫ぶであろう。プライドも理屈もない。本心である。ここが主と出会う領域なのだ。本心への深まりが深くなる程、自分の無力さに気づき同時に神の絶大な命が自分の内に注がれているのがわかってくるのである。自分にしがみついている間は見えず自分を捨ててイェスを信じた時に啓示(悟り)を受け一切がわかってくるのである。
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by oume-akebono | 2013-12-12 23:53 | 週報メッセージ

(ヨハネ4:14)    大谷 唯信 牧師 



「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わき上がるであろう。」 



イエスの御言葉は神の命でありイエスご自身である。イエスを信じ従っている者には、この恵みが与えられている。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)も同じ恵みの譬えである。
「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。」何と力強い約束であろうか。たとえ自分のつながり方に自信がなくとも、その思いを持ってつながる事を願い出れば、主御自身の方から御手を延べつながって下さると言う事である。「わたしが与える水を飲む者は」の飲むとは、イエスを自分の救い主として信じ心にお迎えすることである。
ぶどうの木に「つながる」事も同じ事を言っているのだ。
 

ところで、この御言葉はあなたの中で真実な体験となって、生ける証しとなっているだろうか。
これは、自分の中で正直に吟味する必要がある。自分の中で泉となって湧き上がる命、イエスの幹から流れ込んでくる力、これらを絶やさないために日々新たにこれに向けて軌道修正をし、立つべき本来の立ち位置を整えているだろうか。この一点を常に実感していることが大切なのだ。そしてそういう自分を御聖霊の助けを借りる信仰で見張り管理する自分を持たなければならない。この自分とは、自我から立ちかえった霊なる本心である。本心は神の口から出る一つ一つの御言葉、即ち「いのちのパン」によって養われ、私達の「内なる声」となって私達を導く。何故なら本心の中にキリストが住んで下さっておられるからである。これは頭で理解したり分かったりする自我の領域ではなく、信じる領域なのだ。


「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうち(本心)にいまし、その人は神のうち(命)にいるのである。」(Ⅰヨハネ4:15)。神に対しては分かろうとするのではなく、ただ単純に信ずるのだ。そうすれば内なる声は神の言葉が与えられる。悪魔を信ずる者は「内なる声」も支配され、悪しき想いに振り回されるから気をつけねばならない。この世は悪魔に支配されているが、主は語られる「世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信ずる者ではないか。(Ⅰヨハネ5:5)
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by oume-akebono | 2013-12-12 23:44 | 週報メッセージ