(ヨハネの第一の手紙 4:7-10)   大谷 唯信 牧師



「・・・わたしたちは互いに愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。・・・わたしたちが神を愛したのでなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」



わたし達が信ずる神は、奇跡を生み出す神である。わたし達が今救われて共に礼拝をしている、これこそ奇跡ではないか。救われる以前、誰が自分の今を想像していたであろうか。確かに教会と出会い、求め、信じて今がある。即ち、すべて自分が求め、自分が信じ、自分が決断しクリスチャンとなったと思っている。確かに自分の側では、その順序は踏まなければならない。しかしそれを越えたもっと大いなる力が私たちを導いて下さっておられる事を知るべきである。


私たちは自分で道を開き、自分の力で信仰を支えて、自分の力で愛し合っているのではない。「神がまずわたしたちを愛して下さったからである」。すべての事は神から始まっており、その根拠も私ではなく神なのである。自分の小さな物差しで神を計ってはならない。自分の考えで計る小さな神にしてはならないのだ。私達の信じる神は無から有を生み出し、不可能を可能にされる奇跡の神である。


イエスは次のように言われている、「互いにつぶやいてはいけない。私をつかわされた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私に来る事は出来ない」(ヨハネによる福音書6:43-44)と。この世には知恵あるも者、力ある者、身分の高い者も多くいる。しかし、神が引き寄せて下さらなければ、イエスを直接に見、直接に話を聞いても、信じる事は出来なかったのだ。心の目が閉ざされていたからである。二千年前も今も全く同じなのだ。自分の考えにそぐわないものは信じられないのだ。今でも神を信じられないと言う人は多い。それは、自分の理解では到底考えられません、と言う事ではないか。


永遠なる神をどうして人間が理解しきれるのか。自分を根拠に見ているからだ。自分の見えるところから出なければ見えない。   
私たちは神を信じ、神の奇跡を信じようではないか。足下からだ。「互いを愛し合う」ことは神の奇跡を信じる中でのみ実現することだ。主にあって本物を求めよう。
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by oume-akebono | 2013-09-21 14:10 | 週報メッセージ

(ヨハネⅠ5:4)        大谷 唯信 牧師



「世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか」


 特に「信じる」に注目したい。知る、理解するのではない。尊敬する、愛するのでもない。「信じる」である。「者」とは、「皆」とか、「人々」ではなく、私でありあなた自身である。この信じる信仰、即ち、イエスを信じる信仰を持てば、あなたは、世に勝つ勝利者となるとの神の約束である。からし種一粒ほどの小さな信仰でもよい。細い線でもつながっていれば電流が流れるように神の命は、確実に流れ込んでくる。「信じさせて下さい」と願いつつ、一向に信じない人がいる。私がそれであった。


「信じたい」との思いがあり、「信じるべきだ」との思いにさえなっているのに信じられないのだ。人からではなく自分の事として、もう苦しくなるほど「信ずるべきだ」と心に迫られているのに信じられない。もう一つ何か、自信がない、確証がほしい。何かあるのではないかと待っているのだ。待っていれば自然に信じられるようになるのではと思っていたのである。


しかし、どんなに待っていても自然に信じられるようにはならなかった。どんなに待っても「自然にわかる」ようにもならなかった。だが、わからないのに「信じます」等と言えば嘘になる。自分の心に嘘はつけないと思ったのである。高校1年生の時であった。しかし、これは間違っていた。これはわかって信ずるものではなかった。わかろうとしてはいけないのだ。わからないまま、否、わからないからこそ信じるのだ。しかも信じるのは自然の流れでは来ない。何かを待つのではなく、ただ自分の心で決定すればよいのである。心の冒険だ。驚く事に信じてからいろいろな事がわかり、必要に応じてクリスチャンとしての道が整えられ歩みが始まった。決めるまでは何も始まらなかったのである。
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by oume-akebono | 2013-09-21 14:00 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 3:4) 大谷 唯信 牧師



「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」



 「新しく生まれる」、心のどこかでそう願った人は多い。しかしニコデモのように「どうしてそんな事が?」と思ってしまう。彼は律法に厳格なパリサイ人の長老であり、学者、教師であった。その彼でさえわからないとするなら私達が聖書を学び知識を得、たとえ学者のようになったとしても「わからない」次元の事を示しているのではなかろうか。にもかかわらず多くの人が「新しい人」になろうとして、知識を得、学び、わかろうとしている。


 この世の取り組み方は知識を得、学び、考え、理解し、自分が納得すると言う方法だ。それが一番正しく、それ以外の方法はないとさえ思っている所がある。
 聖書は最初の人、アダムが神に背き知識の実を食べた。それによって人は神から離れ、知識によって生きるようになったと語る。この世の諸悪の根源的原因を譬えているのだ。「神を離れ」とはすでに神の命から断絶している事を言う。即ち神の命が死んでいるのだ。生きているようだが神の命はない。そこにはもはや自我の命(エゴ)だけしかないのである。


 命を霊という。イエスは言われた、「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である」と。今や全世界、全人類が肉に支配されている。子供も大人もである。一人ひとりが肉で生まれ育っているため、自分の肉に気づかず肉が自然体にさえなっているである。神の命が必要とは思わない。必要とする方が病的で自分は健康だと思っている。それはそれ程に肉そのものになっているからだ。
 

「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う」。どんなに磨いてもガラスはガラスであるように肉は肉であり死である。ではどうしたらよいのか、「誰でも水と霊から生まれなければ・・・」と。即ち、誰でも自分の肉を知り悔い改め、水のバプテスマを受けキリストを信じるならば知識を超えて神の命が得られ新しい自分が生かされるのである。知識ではなく信じる信仰にあったのである。
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by oume-akebono | 2013-09-21 13:55 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 4:12-13)    大谷 唯信 牧師



「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、‥‥」



神への「奉仕のわざ」ほど尊く力が与えられ神の祝福を受ける働きはこの世にはない。しかし肉の働きにしてしまえば大した喜びもなく疲れが残るだけとなろう。たとえ意味のないように思える働きであっても、心して信仰の出来事に切り替えるのだ。主から与えられた働きであり、主のため、御名の栄光のためとして純粋に主に感謝の祈りをもって取り組むのである。不平不満等の消極的な気持ちが出たなら直ちに捨てて主を仰ぎ、意識して感謝の心に切り替える事が大切。特に教会の奉仕はキリストに仕える事そのものだ。


兄弟に仕える事も「それはわたしにした事である」と主が言われたようにキリストに仕える事になる。それはキリストにつながる事、キリストとの直接の交わり、対話であり応答となる。すると日常生活もイェスとの出来事、神との出来事となり、私達教会の出来事として受けとめる信仰にまで拡げられてくる。そうなると生活すべてが神との出来事となり一つひとつの出来事から今迄見えなかった意味が見え、深められ毎日が充実した意味のあるものになってくる。無駄と思える中にも意味が見えてくる。


私達は信仰によって救われ「キリストのからだなる教会」とされた。私達はキリストのからだの肢体(部分)なのである。「からだ」とは実にわかりやすい譬えだと思う。私達が手や足、目、鼻と言う事だ。自分の体で見ればすぐわかる事だが、足は足のために働いているのではない。手も目もすべての部分は「からだ」のためであろう。とするならば私達の働きは自分のためではなく体のためではないか。ここでの個人主義、分離、独立はないのである。すべての働きは体のため即ち、教会のためキリストのためなのである。一つの部分の痛みも喜びも全体に影響を与えている。部分は体に与え、体に支えられている。常にからだを意識しよう。かしらなるキリストに導かれ、からだ全体が一つとなって歩む時、教会は豊かに成長するのである。
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by oume-akebono | 2013-09-04 18:33 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 6:7-8)   大谷 唯信 牧師



「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」



パウロはガラテヤの諸教会に対して、かなり厳しい口調で語っている。「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。」「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げようというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか!」等と叱責しているのだ。「あなたが救われたのは律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか」と正面から一番の問題点を突いたのである。


だが、これは彼らだけの問題ではない。その底に流れている問題は、現在の私達にとってもそのままの問題ではなかろうか。「人は自分でまいたものを、刈り取ることになる」との一つをとって見ても、万国共通の人生における真理であろう。よく自分の人生を嘆いている人がいる。自分が駄目なのも能力が無いのも、親の育て方のせいであったり、友達、学校、会社、上司、環境、時代のせいだったりする。


しかし、はっきり知っておくべき事は、人生の出来事はすべて偶然ではなく、他人でもない自分がまいた種の結果なのである。どれほど受け入れ難い事であっても、たとえ天変地異の災害であっても、自分の人生の現実である事を認め、生きる心構えを正しく自覚し、一つずつ正面から取り組んでいかないと、自分の気がつかないうちに、悪い種をまくことになっているのである。


自然が自然の法則で生きているように、人にはいのちの法則があるのだ。パウロはこれを言っているのである。これに従わなければ人は生きられないのである。あなたの思考そのものがあなたの今の人生なのだ。不平不満を言うごとに毒の垂れ流しなのだ。しかし、霊とゆるしの心に切り替えるならば、確実に人生が変わって来るのに気がつくであろう。
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by oume-akebono | 2013-09-04 14:12 | 週報メッセージ

(エペソ 3:10)     大谷 唯信 牧師




「それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、」



神のすべての御業が、教会を通してこの世に与えられているとは驚くべき事である。教会は私達人間が建てたのではなく、神が独り子キリストなる御聖霊の注ぎによってこの世に誕生させた。
常に教会を導き先行して下さるのは御聖霊であり、常に生き生きした神の命を注いで下さるのも御聖霊である。決して私達の情熱や力ではない。神の力である。神は教会を通して、即ちそこに連なる私達人間を用いて御自分の御業をすすめられる。神は世界宣教を御自分で直接なさるのではなく人(教会)を通してなさる、これが神の方法なのだ。


神は常に働き人を求めておられる。もっと端的に言えば神はあなたを必要としておられるのである。それにしては教会は、この世に対して余りにも弱く、自分に至ってはそれ以上に力がないと思う。しかしはっきり言うが、それは全て関係ないのである。私達の弱さ強さは関係ない。確かに神は私達を用いるが、働かれるのは神ご自身であり神の力である。


これは私達が信仰生活をする上で、神が教会に与えた位置づけとして基本中の基本であるから、しっかりと覚えておく必要があろう。「わたしにつながっていなさい、そうすれば豊かに実を結ぶ。」とは主の約束だ。それは教会生活を軽んじたりしていては神の恵みに充分あずかることが出来ないと言うことでもある。確かに教会には次々といろいろな問題が出てくるものだ。


しかしこれは教会だからと言うのではない。教会はこの世の問題の縮図でもある。教会の問題ではなく私達人間の問題が明確にされる所だ。「わたしから離れては何一つできない」のがこの世の現実であろう。
 教会はどんな問題があっても、「つながっていれば豊かに実を結ぶ」と言う成長の実験牧場でもあるのだ。教会はキリストの体でもありキリストの命が満ちている。教会につながる事はキリストにつながる事でもある。教会で成長し訓練された者は「神の多種多様な知恵を知る」ことになり、この世にあっても堂々と生きていけるようになるからチャレンジしよう。
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by oume-akebono | 2013-09-04 14:04 | 週報メッセージ

(ルカ23:34)      大谷 唯信 牧師



「イェスは言われた『父よ、彼らをお許しください、彼らは何をしているか、わからずにいるのです』」


この世は常に暗黒である。エゴなる罪に支配されているからだ。罪を人の良し悪し程度の小さな事として侮ってはならない。気にもしないような小さな罪を足場にしてサタンはその人の中に入り込み、全く別人格の圧倒的な力となってその人を巧妙に引き廻すのである。


サタンは決して自分の正体を出さない。その人、本人が自分の考え自分の思い、自分の決断で動いていると感じるようにして導く。誰も、まさか自分がサタンに引き廻されている等、気づきようがないのである。完全に目がくらまされ真実が見えなくなっているのだ。そのためどんなに高く理想がかかげられ人類愛が語られようとも、罪が支配するエゴからは抜け出す事は出来ない。何故なら人間の知識、理性そのものがサタンの手におちているからだ。そう言われても人は「そんなバカな!」と一笑に附すだけである。


サタンの巧妙さは人間の知恵では測り知れない。ただこれに気づくのは絶対他者なる神の光に照らし出された時だけであって、それ以外にはない。凶悪な事件、原発問題、その後の処理、等々、この世の識者たる人達がここぞとばかりそれぞれの正論で社会を憂い、断罪し、分析、批判の声を高らかに犯人探しをしている。諸局は社会、政治、行政、教育の問題だとして熱く語られるが、その繰り返しでしかない。これが私達の限界ではなかろうか。今や国民全体が社会悪に対し、正義の評論家になっているようだ。これは今も昔も変わらない。


だからこそ、イェスは論じるのではなく他者を責めるのでもなく自らが全人類の罪を背負って十字架につき神の前に自分を差し出し「父よ、彼らを許して下さい。彼らは何をしているかわからないのです。」と罪の許しを祈っておられるのである。即ち、この世の問題は政治、教育等の問題ではなく、人間、個々の罪の問題としているのだ。しかし、罪の中に居る者ほど罪が見えず、むしろ自分の正しさしか見えないのが罪の現実である。当然、悔い改めも起きない。イェスの「わからずにいるのです」との祈りはそう言う事でなされているのである。
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by oume-akebono | 2013-09-04 14:00 | 週報メッセージ

(ヤコブの手紙 4:8-10)   大谷 唯信 牧師



「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」



これは人に対しても仕事に対しても言える。人を得たいなら、まずその人に近づくことが第一であろう。仕事であるならば、やはりその仕事に近づき、負ってみる事だ。神に対しても同じである。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」


しかし、正しい近づき方を知らねばならない。モーセはいつものように当たり前の日々を、羊飼いとして過ごしていた。ところがある日、予想もしていないことが起きたのだ。山の中腹に柴が燃える火を見たのである。その火はなかなか燃え尽きない。いつまでも燃え続けている。それに彼は興味をひかれた。「何故柴が燃え尽きないのか」不思議に思い、「よーし、そばに近づいて、どうなっているか確かめてみよう。」と身を起こし、山の中腹まで登り、近づいていったのである。


この不思議をこの目で見て確かめてみよう。納得してみようという事であった。物事を知るごく一般的な方法であろう。しかし、神を知るには、この方法は全く役に立たなかったのである。「一つ見てやろう、理解してやろう、調べてやろう」ではどれほど熱心でも全く通用しないのである。それ故に多くの人が神を分かろうとするが、目的を達せないでいる。又ある程度、神に近づくようにもなるのだが、回心にまで導かれる人は、残念ながら多くはない。


何故なのか。それは求める態度が間違っているからである。大いに研究し、大いに論じ、また研究する人も多い。しかし、知識を得ても、生ける神と出会うことはない。モーセは「ここに近づいてはいけない。ここは聖なる所、足の靴を脱ぎなさい。」即ち、もっと心を低くして礼拝して主に従いなさい、という呼びかけを受けたのであった。神に近づく事は理解ではない。信じ従う事である。
受胎告知を受けたマリヤが、「私は主のはした女です。お言葉通りこの身になりますように。」と礼拝したのは理解による納得ではなく、信仰によっての決断であった。信仰によって近づく者に、神もまた、近づいて下さるのである。
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by oume-akebono | 2013-09-04 13:43 | 週報メッセージ