(箴言 3:5-6)    大谷 唯信 牧師



「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」 



創造主なる神は御自身の栄光を現すために全地を造られ、その中心として特別に御自分に似せた霊的存在としての人間を創造され、この地を治める事を委ねられた。しかし人間は神を離れ無視し反抗し神中心ではなく自己を中心とし神の栄光ではなく自分の栄光を求める者になってしまった。これによって本来の神と人との正しい命の関係がくずれてしまったのだ。本来の人が立つべき根源的な立ち位置からずり落ちてしまったのである。以来、人間は神の知恵を失い、自分の知識のみに頼って生きるしかなくなりそれが当たり前になっているのが今日である。


このずれを聖書は「罪」と言っているのだ。法律的なこの世での罪ではない。神との関係が断たれてしまっている状態を罪と言っているのである。そしてこれは法律的な罪よりも深く致命的な問題なのである。あたかも健康な体に潜んでいるガンのようなものでやがては全身に拡がり死に至らせるものである。この世の全ての悪は人間の根本のずれ即ち自己中心と言うエゴからである。


そもそも「自分の知識」そのものが罪なのである。今やこの世はますます自分の知識、情報で成り立っている。しかし知識は人を誇らせるだけなのだ。これがこの世の教育の限界であろう。神を離れた知識はエゴイストを養成するだけになる。この世の状態を見ればそれを証明しているではなかろうか。今や国と言うより人間そのものがこわれてきている。あなたはそれを感じないだろうか。これは政治や教育の問題ではない。根本的な罪をかかえている人間の問題である。


罪の恐ろしいのはガンと同じく自覚症状がない事だ。社会ではなくわたしやあなたの問題である。神は呼びかけている。「自分の知識に頼るな。心をつくして主に信頼せよ。そうすればあなたの道は整えられる」と。神の約束である。神の知恵を求めようではないか。
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by oume-akebono | 2013-07-24 22:11 | 週報メッセージ

(イザヤ書 45:4-5)     大谷 唯信 牧師


「恐れるな。わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」



「自分探し」等の言葉を聞くだろう。そう、誰もが意識するとしないとに関わらず、これをしているのである。人生には色々な出来事が起こる。その都度、喜んだり悲しんだり、何とかしなければと頑張ったり・・・、常に自分を意識しているではないか。「自分探し」をしているのだ。究極の自分をどこか求めているのである。それはもの心のついた子どもの頃から既に始まっている。とするなら人生はすべてが自分探しの旅と言えないだろうか。人は更なる確かなもの、生活や心の豊かさ、ありとあらゆるものを求めて今日に至っている。


しかし、イエスは言われた。「人を生かすものは霊(神の命)であって肉はなんの役にも立たない」(ヨハネによる福音書6:63)「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(ルカによる福音書10:42)と。「自分探し」とは突き詰めてゆくと、それは「神探し」でもあるのだ。自分のルーツを求めているのである。


神は人を霊的存在として造られた。誰もが肉を超えた霊的命をすでに持っているのである。人は神から離れているため霊の命が分からず、結果的に肉の食物だけを求めてしまい、霊の命は満たされず、また意識もしないので、心の奥に閉じ込めてしまう。現代人の言い知れぬ孤独感、不安、恐れはここから来るのである。まわりでどれ程手を差し伸べても届かない。かえって一寸した一言にでも傷つき、奥に閉じ込めてしまう。


しかし、神は冒頭の御言葉にあるように、「恐れるな。わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする」と語っているのである。あなたが神を知る前から神はあなたを知っており、キリストの命をあたえようと、チャンスを与えておられるのである。神の言葉を聞き心に留め、御言葉を通して神と共なる事を意識し続ける。信仰はこの積極的態度によって、深められるからである。
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by oume-akebono | 2013-07-24 22:07 | 週報メッセージ

(エペソ6:10)   大谷 唯信 牧師



「主の中で、また彼の力強い大能の中で力づけられなさい。神のすべての武具を身に着けなさい。悪魔の策略に敵対して立つことができるためです」  



サタンの働きは巧妙で常に主の霊から引き離し、「肉の働き」(ガラテヤ5:19-21)に吹き込もうとする。私達の教会が霊の命に目覚め、さらなる成長に向わんとするほど活発に彼は動き出すのだ。もっともらしい理由のもとに互いに争いを起こさせ、ねたみや、党派心を引き起こし分裂させようとする。それだけではなく霊的な事柄においても競争させ較べ奉仕や献げ物をするその中にも肉の思いを密かに起こさせようとする。さらに教会一致、福音宣教を願うその中にも理解や方法の違いで争いを起こさせる。


何と多くの教会や信者がその手に乗せられた事か。サタンは決して姿を現わさない。自分の存在を認めさせないためである。彼にとってその方が働きやすいのだ。そしてまた神をも信じないように働く。互いに相手の間違いを原因として争わせるためである。今や世界中がこの手に踊らされ、しかも自らは賢く正しいと思わされ手いる。私達は気をつけよう。「もし、あなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心いだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また真理にそむいて偽ってはならない。そのような知恵は、上から下って来たものではなく、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。ねたみと党派心のある所には、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある」。(ヤコブ3:14-16)


あらゆる争いの背後にはサタンがいる事を覚えよう。「私達の戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エペソ6:12)。詩篇35篇を読んでほしい。
「主よ、わたしと争うものと争い、私と戦う者と戦って下さい」と主に戦っていただく事を祈っている。サタンが人を利用して混乱を起こす時、主に祈ってサタンを黙らせる事が出来るのだ。サタンはこの世の人の目をくらませ信じないように今も熱心に働き続けている。だからこそ私達は「目ををさましてうむことなく、すべての聖徒のために祈り続ける(エペソ6:18)のである。
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by oume-akebono | 2013-07-24 22:04 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 11:23)   大谷 唯信 牧師


「神を信じなさい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」 



山をも動かす信仰の力を主は語られた。心で疑わないで本当に信じるなら山をも動くと主は言われるのだ。正に奇跡の信仰である。わたし達の信ずる神は無から有を呼び出す創造の神、即ち創造主なのである。それ故、私達にも無から有を呼び出す信仰に立てと迫るのだ。神は全人類を救うために独り子イエスをこの世に使わし救いの御業を完成させ、それをイエスから弟子達に、さらにキリスト教会に託され全世界に福音を伝える勤めを与えられたのであった。


今やこの神の大事業は私達にも与えられているのだ。即ち、驚くべき事なのだが私達青梅あけぼの教会も神の歴史的大事業の流れの中で建てらられ、現在、私達共々、神の恵みにあずかっているのである。世界的な神の恵みの大河の流れの中に招き入れられていると言えよう。私達は決して単独ではない。独りで頑張っているのでもない。時代はどんなに流れ変化しても霊なる命の次元に於いては、あのペテロやパウロの歩んだ道を同じ主の御言葉によって歩み、この世に在りながら神の国籍を持ち神の家族とされているのである。


この世は神に背き知識の実を食べたアダム以来、現在も神の如くなる野望に動かされ知識の実を食べ続けている。今や幸せ、平和を約束していた原発が世界中を死の恐怖に落とし入れている。人間の知識の空しさの象徴であろう。


聖書は語る「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。神はこの世の知恵を愚かにされたではないか。この世は自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは神の知恵にかなっている。そこで神は宣教の愚かさによって信じる者を救う事とされた」(コリント人への第一の手紙 1:19-21)と。信じるとは神の前に己を低くする所から始まる。神はその人の信仰に応じて生かし出される事を覚えよう。
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by oume-akebono | 2013-07-01 12:24 | 週報メッセージ

(コリントⅡ11:29)       大谷 唯信 牧師



「だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。」



誰でも一つや二つ、否、それ以上に自分の弱さを持っているものだ。又、具体的に何がではないが人間全体として自分は弱い人間だと思っている。それだけに自分の弱さを相手に知らせないように敢えて強そうに振るまったり格好つけたりもする。自分より良く見せるのも反対に悪振るのも自分の弱い所を隠す自分なりの常套手段なのだ。とにかく自分の正体は出さない、見せない、知らせないとの思いが無意識にも出ているのが普通の人なのである。恥をかきたくない、失敗したくない、人によく思われたい等々、いつの間にか無理をし背伸びをし自分は自分と思いながら自分らしさが独善的、独りよがりになり、他者とうまくいかなくなったり、それがまさか自分が原因だとは気づかない。


もし気づいたりすればショックは大きく痛く落ち込み今度は強さ弱さではなく波風を起こさない無難な「良い人」を演じる術を学んでいく。何が起きてもニコニコして表面的に無難に対応する、どっちにもつかず良識の中で振るまい「良い人」になるのである。本音も本心もない。その時々の常識論、一般論で正解を出し対応していく。これは実に楽である。互いに傷つけ合う事はない。中に踏み込まないからだ。


今や現代人は「自分なりの良い人」病にかかっているではないか。だから皆、孤独なのだ。誰もが自分の事からしか見てはいない。職場は勿論、家族の夫婦、親子ですら同じだ。家族では甘えがあるから押さえていた本音が爆発し離婚や家庭崩壊も起こる。閉じこもっていた者同士、対話を造り出せないからだ。全て弱さへの対処が間違っているために起きているのだ。


パウロは正直だ。自分の弱さを認めた。そして自分を超えた絶対的力であるキリストを求めた。その時、「主の力は弱いところに完全にあらわれる」ことに気づくのである。そして次のように語っている。「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと侮辱と危機、迫害と行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 」(Ⅱコリント12:9-10)と。
弱さに徹し主を仰ぎ見よ。
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by oume-akebono | 2013-07-01 12:21 | 週報メッセージ

(コリントII 12:7,9)      大谷 唯信 牧師



「高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。主の力は弱い所に完全にあらわれる」



この度わたしは腰痛なるものを体験した。受難週を迎えた3月25日月曜日の朝5時、ベッドから起き立った瞬間、下半身に激痛が走り歩くこともベッドに戻り座る事も出来ず、余りの痛さで脂汗で貧血。呼吸も苦しくなり正に受難週となったわけだ。イースターになってもわたしのイースターは来ず、まだまだ激痛の嵐の真只中であった。それから過ぎる事2ヶ月半。完治ではないが痛みも去りゆっくりなら歩けるし車にも乗れるようになった。今では一歩一歩ゆっくり足を踏みしめ歩けるこの一歩が実に新鮮で嬉しいのである。


神様はこの時期に素晴らしい恵みを与えて下さった。それは初めの1ヶ月は激痛の嵐に揉みに揉まれ翻弄され我慢等役に立たず体も心も全くの弱さそのものの醜態をさらし無抵抗で心の中では悲鳴を上げているだけであった。ところがそこで変化が起こった。体の痛みは激しく続いているのだがその悲鳴が祈りとなり主に向かっての魂の叫びとなり自分の全存在をかけて主に依り頼むようになった。これがクリスチャンの特権であると思う。


足の指がかすかに動いても、ふとんの布がかすかに触っても激痛が走るとなるともうお手上げである。誰でも思わず必死に主に依り頼むではなかろうか。痛みの中でイェス様の十字架の痛みを思う。勿論比べようはないのであるが自分の一寸した事でもこれ程の痛みがあるのだからイェス様の痛みはどれほどのものかと自分の痛みを通してイェス様の苦しみを想い申し訳なさと感謝でいっぱいになった。すると弱く吹き飛ばされそうな体の中に静かで平安に満ち、神の愛に感動している自分、何の恐れもなく堂々としている自分がいた。これは神への愛に生かされていると言う確信、それは自分が弱くなるほど強くされていく。


主が共におられる。この2ヶ月半は本当に恵みの時であった。わたしの実感としてはこの期間・不思議な事に1週間位にしか感じないのである。皆さんには多大な迷惑をかけているのにである。教会の方々の祈りと働きに心から感謝している。あらためて教会の力を見させていただいた。これまた感謝である。
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by oume-akebono | 2013-07-01 12:18 | 週報メッセージ

(使徒行伝 4:13)      大谷 唯信 牧師



「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。」



あの弱かったペテロが驚くべき変身をとげた。いつも失敗してイエスに叱られていたペテロ。常に熱心で思わず思ったことをすぐに口にし、行動してしまうペテロ。良かれと思っての事が結果的には失敗となってしまうペテロ。イエスから「サタンよ、退け!」とまでの叱責を受けたり、ユダの裏切りに激怒し、自分は死に至っても忠誠をと心から誓いつつ、自分もイエスを裏切ってしまうペテロ。どうしてこうなってしまうのだろう。
肉で歩いているからだ。


イエスは霊の次元で語るのだが、受け取るペテロは肉の次元でしか分からなかったのだ。どれほど熱心でも、心をこめても「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」。(ローマ人への手紙 8:5)「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」(ローマ人への手紙 8:6)の通りであった。ペテロにはそれがわからなかったのである。


しかし、約束通り聖霊が注がれた時、その瞬間から事態は全く変わった。霊に生きる者となったのだ。その記録が使徒行伝である。ペテロは主に変えられた。否、ペテロの中にキリストが生きたのだ。これがクリスチャンの醍醐味であろう。聖霊の働きである。この聖霊は二千年を経た今も教会に与えられている。イエスを信じる者には、そして聖霊を信じる者には、既に与えられているのである。


私達も肉ではなく聖霊に満たされる恵みを受けようではないか。悪魔は私達の肉に働きかけ、動かそうとしている。アダムに働きかけた悪魔、イエスを荒野で誘惑した悪魔は、今も私達に迫っている。悪い事よりも良き事を通して敵意、争い、分裂、分派を起こす力となってくるから気をつけよう。肉は情と欲と共に十字架につけてしまおうではないか。(ガラテヤ人への手紙 5:24)
誰でもこの願いを求めつつ歩むならば、主は必ず応えてくださり、今度はあなたが、人々から不思議に思われるあなたとなるのである。
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by oume-akebono | 2013-07-01 12:12 | 週報メッセージ