(マタイによる福音書 4:4)    大谷 唯信 牧師




「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」



 イエスが神の子として人間救済の働きに出ようとする時、サタンはその目的達成のために次の三つのことをイエスにすすめたのである。一つは、「石をパンにせよ」であった。人類にとって食糧問題は常に最大の課題であろう。国とっても個人にとっても「食べる」と言う目的のために政治、経済、行政、教育もすべてこれの獲得のためになされていると言える。イエスの時代であっても現代の科学文明の進んだ時代であってもますます深刻な今や世界的規模の死活問題とさえなっている。


今、話題になっている一つに日本企業のアフリカ進出がある。隣国の韓国、中国等の主要国との競争も激しい。自動車や食品等にとっては「最後の巨大市場」としての売り込みもあるが、日本にとってはさらに石油や天然ガス等の天然資源、いわゆる鉄鉱石の宝の山なのである。まさに石をパンに変えられるのだ。磨き上げた日本の持つ技術力は奇跡を起こせるのだ。


二千年前サタンはイエスに「もしあなたが神の子であるなら」と前置きし「石をパンにせよ」と言った。人類の食糧を満たしてあげれば、あなたは神の子として崇められ人々はあなたを信じ従うと言う事なのである。イエスは答えられた。パンが駄目といったのではない。それ以上に人類にとって重要な事があると言われたのである。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と。人間はパンだけで生きる動物以上の神的存在、それ故、神の言、即ち神の命を日々の食べ物として食べる事によって生きられるものだと。人間の心の深みにある霊性の養いの重大さを説いたのである。


しかし人々は現在でもパンだけを求めている。サタンの二つ目は高い所から飛び降り神の力を示すこと、三つ目はこの世の栄誉、栄華をすべて与えようである。現代人も結局は何を求めているのだろう。この三つではないか。これで全人類の目がくらまされているのだ。イエスはサタンに言われた。「サタンよ、退け、主なるあなたの神を拝し、ただ神のみに仕えよ」
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by oume-akebono | 2013-06-03 10:57 | 週報メッセージ

(ガラテヤ2:19-20)       大谷 唯信 牧師




「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」




これこそ神の求めるクリスチャンの姿であろう。律法とは十戒が代表するものであるが絶対正義として神が人間に要求しているものだ。これに違反する事は罪とされその報いは死である。小さな違反でも罪は罪であって許されないのである。とするならば規約、規則、道徳上の戒め、人間としての道義的問題等々、すべての規範を含むのである。髪の毛一筋ほどのズレであっても間違いは間違いであって完全、絶対正義でなければ死罪なのだ。


神の律法とはどこまでも完全、絶対を要求するもので例外はない。しかしそのように神の如く完全に絶対に出来る者が人間にいるのであろうか。それはいないのである。聖書は「義人はいない。ひとりもいない。すべての人は罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」(ロマ3:28)とある。では何故、神は律法を与えたのか。それは人間は不完全であり罪人であると言う事を人間自身に知らしめるためである。



人間は神を無視し認めず自己を神とし自己中心に生きているとんでもない極悪人である事を自覚させるためであるのだ。パリサイ人をはじめ今ではある程度の努力で「わたしは小さい時から守って来ました」という富める青年の如く、すべての人間が自分なりの正しさ、自分なりの罪と言う身勝手な判断で生きているのが実態である。


パウロは神の子キリストの真実の愛に出会って自らの罪、高慢に気づかされ神の律法による断罪によって究極の死にまで直面し、同時にそれはキリストと共に十字架に死によみがえる、一方的な神からの愛に生かされる神の命の体験とされたのであった。故に「わたしではなくキリストがわたしのうちに生きている」と告白したのである。私達も「わたしではなく、キリストがわたしのうちに生きている」と信仰によって告白しようではないか。
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by oume-akebono | 2013-06-03 10:55 | 週報メッセージ

(使徒行伝1:7-8)       大谷 唯信 牧師




「…あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時…」




 イエスが苦難を受けよみがえり天に上げられようとする時、残される弟子達にとっては最大の危機的状況であった。イエスを十字架につけた国、社会、大衆の中に取り残されるちいさな群であったからだ。人目を忍んで部屋にとじ込もるしかないすべて無力そのものの群であった。一刻も早くこの街を逃げ出したいのが本音であったろう。その小さな群にイエスは「エルサレムから離れないで、わたしから聞いている父の約束を待て」と言われたのである。その時の弟子達の気持はどんなであったろうか。心細さ、恐怖…何をどのようにしたらよいかわからなかったであろう。


しかし、私達は見てみよう。実に教会はここから始まったのだ。この世から抹消される事もなく二千年の年月をも持ち応え今や世界宗教として全世界にイエスの福音を述べ伝え、今日も肉の世にあって、世の光として人々に愛と希望を与え続けているのである。これは驚くべき事である。この世のどんな大事業であっても生まれてはすぐ消えていく。最強の優れた指導者、精鋭部隊であっても消滅する。ところが教会はますます全世界に福音を語り続けているではないか。


イエスは当時、この小さな弱々しい群に「あなたは世の光、地の塩である」と言われている。「まさか!」と弟子達には思われたであろうが今になって見るとすべてが真実であった事がわかる。当時、不安な弟子達はイスラエルや国の復興について質問をした。何とかしたいと思ったからであろう。ところがイエスの答えは、それは父が決める事であって、「あなたがたの知る限りではない」であった。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて…地の果て迄、わたしの証人となる」。即ち聖霊が私達を用いて主の証人とし、すべては聖霊が計画し、事を運ぶと言う事である。この聖霊は今も同じく私達の教会に働き、導いて下さっておられるのである。私達のこれからの課題は、「私ではなく御聖霊が働く」真理を知ることであろう
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by oume-akebono | 2013-06-03 10:52 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 12:10-12)  大谷 唯信 牧師



「兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、艱難に耐え、常に祈りなさい。」


自分のすべての行動を神の栄光のため、又、人の徳を高めるためと目標を決めて生活してみよう。そうすれば、自分がいかに自分の栄光のため、自分の利益のためという自己中心(肉)の姿勢でいるかに気づくのではなかろうか。この気づきが人間本来の霊的成長につながるのだ。


近頃、何年経っても一向に成長できない未熟な青年や大人が増えているが、私達クリスチャンも例外ではない。パウロは「肉に属する者」をキリストにある「幼な子」と言い、「堅い食物は与えなかった。食べる力がまだあなたがたになかったからだ。今になってもその力が無い。」(コリント人への第一の手紙3:2)と言い、さらに「あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。」(コリント人への第一の手紙3:3)と言い切る。


私達は常に肉を砕き、捨てる事によって霊的成長がある事を覚えよう。能力のある人は、肉であっても結構リーダーシップを発揮し、一見よい働きをするものだ。しかし肉は肉、一寸バランスが崩れると滅茶苦茶となる。霊的なグループは困難にぶつかると、さらに固く一つとなり愛に満ちたグループとなろう。肉的グループはばらばらになってしまう。肉だからだ。


先日、ある教会がそのようになった。牧師と数名残してほとんど全員が去った。「して持って行かれたという感じです」と牧師の弁。「悔しいの?」と訊くと、「悔しさはもう越えました」と語気は荒い。「自分の何が原因だと思いますか。」との問いに「もう何だか分かりません」と投げ捨てるように言う。自分の気持ちには正直なのだろうが、正に肉そのものの特性が次々と出てきてしまうのである。
これは私達にとっても他人事ではない。私達も肉を持っている。だからこそ御言葉によって日々砕かれる事を願うのだ。御言葉には、私達の心を砕き霊的生命を深める力があるからである。心して歩もうではないか。
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by oume-akebono | 2013-06-03 10:43 | 週報メッセージ

(エペソ4:15)         大谷 唯信 牧師



「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」



これは私達教 会に与えられている神からの成長の約束である。何と感謝なことか。勿論、成長させて下さるのは神御自身である。さらに続いて私達教会への注意が語られている。「私達はもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教えの風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく」(エペ4:14)と言うのである。


この世は肉が支配している。教会の内も外も常に悪の霊に攻められている事を覚えよう。決して油断してはならないのだ。悪魔は有能で熱心な人を利用し、その熱心とその働きから不平、不満を起こさせ問題に発展させるから油断大敵なのだ。私達の教会はこれから主にあって素晴らしく成長する。となると、今いる私達が基礎となるわけではないか。どこの教会を見ても最初の基礎となった人達の信仰の有り方はその後の教会に良くも悪くも大きな影響を与えている。それだけに私達は心してキリストを土台として、キリストを中心に生き生きした信仰生活をおくる必要がある。


この世で健全な信仰を保つには教会なしでは在り得ない教会にしっかりつながり外敵から守られ、教会の交わりの中で教会を建て上げていく働き手になっていく程に神の祝福が流れ込み豊かな成長の恵みにあずかる事になる。これがキリストの成長させる方法なのだ。「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハ15:5)「御霊の実」なのだ。


礼拝、みことば、祈りを生活から奪われないようにしよう。そうするにはどうしたらよいのだろうか。イェスは最も基本的な事を教えておられる。あらゆるクリスチャン生活の原動力となるものである。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ」(マタ22:37)である。誰もがわかっているようでやっていないのである。もし、やれば、そこにいるだけで神の臨在を感じさせる人になるであろう。
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by oume-akebono | 2013-06-03 10:38 | 週報メッセージ

詩篇 19:1-4)         大谷 唯信 牧師




「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。・・・」



神は愛であり、愛は神であって全宇宙の中心である。この中心より絶えざる愛の流れが、すべての生きとし生けるものを通して流れている。すべての被造物は、すべての働きを調和させ神の神性を現わす、愛と言う基本原理によって創造されたのだ。これを自覚したならば、誰でも体の全細胞、環境、友人、仕事、家庭の中に神を実感することになろう。


ダビデは大自然の偉大な沈黙、静けさの中に神の言葉を聞いた。「話すことなく、語ることなく、その声も聞こえないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。」と言うほどに神の臨在を実感したのである。神は常にご臨在されているのだが、エゴ(自分の知識や感情)が目をふさいでいるのだ。エゴが破れるか、エゴを超えた状況になれば、その程度に応じて、神の臨在に触れる事が出来る。


‘71年7月26日アポロ15号に乗って月に向かった宇宙飛行士アーウィンは、これが精神的な旅になるとは夢にも考えていなかったと語る。帰還後、伝道者となり、神を証しして世界中をまわっているのである。「宇宙の中の小さい青い宝石、それが地球だ。地球の美しさは、そこに、そこだけに生命があることから来るのだろう。はるかかなた闇の中に地球がポツンと生きている。他にどこにも生命がない。自分の生命と地球の生命が細い一本の糸でつながれていて、それはいつ切れてしまうか分からない、弱い弱い存在だ。かくも無力で弱い存在が、宇宙の中で生きていると言う事。これこそ神の恩寵である。あらゆる懐疑が吹き飛んでしまった。神がここに居られる事が如実に分かるのだ。神の語りかけが分かるのだ。」と自ら驚いているのである。
以来、彼の人生は大きく変わることになったのである。
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by oume-akebono | 2013-06-03 10:35 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 22:37-40)    大谷 唯信 牧師



「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」



 神の私達に対するテーマは常に愛に生きると言う事である。第一があって第二がある。そしてこの二つは一つとされていく。互いに愛し合う事に反対を唱える者はいない。皆、愛を求めている。しかし第一が抜け落ちているのだ。愛を本物にしていく秘訣を聖書は語る。「神がわたし達を愛して下さって、わたし達の罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(ヨハネ第一の手紙4:10)だから「わたし達も互いに愛し合うべきである」と。


即ち、神の愛に立つべきなのだ。この愛が抜けているならば「わたしが全財産を人に施しても、また自分のからだを焼かれるために渡しても一切は無益である」(コリント人への手紙13:3)とまで聖書は言い切る。この世はすべて神の愛によって創造された。わたし達もそうである。


しかしこの世は神を認めず神の愛を失い、自分中心のエゴの愛で現在に至っている。そのためにこの世には神の愛なる愛はない。あるのは人間中心のエゴの愛であり本当に共に一つになる力は全くないのである。近頃の世界情勢を見よ。昔と同じく互いの武力の強さによって牽制しあっているだけの危ういものではないか。パウロは「気をつけるがよい。もし互いにかみ合い、食いあっているなら、あなたがたは互いに滅ぼされるであろう」(ガラテヤ人への手紙5:15)と語っている。
 

この世はそれしか出来ないのだ。だからパウロは「御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たすことは無い。」と命じているのである。この御霊によって神はキリストのからだなる教会をつくり今の私達をも召しキリストの証人として立てて下さったのである。「神は万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」。私達は憶することなく主の証人として歩もうではないか。
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by oume-akebono | 2013-06-03 10:33 | 週報メッセージ

(ヨハネI 4:7,19)      大谷 唯信 牧師



「わたしたちは互に愛し合おうではないか。わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。神は愛である。」


神はわたし達人類のために神御自身をイェス・キリストとしてこの世の歴史的事実の中に姿を現わして下さった。神が愛である事、イェスの語る教えの数々、その行い、人々への接する態度、十字架の死に至るすべての歩み等によって神が愛である事、全人類を愛しておられる事、そしてキリスト御自身が神である事を現わして下さったのである。即ち私達に単なる理想論ではなく実際に私達と共に生きておられる神を現わし、又、人間としての本来の生き方、さらに真実の愛、本当の許し、永遠の命、等々、この世がわかっているようで見失っているものを示して下さったのである。


キリストは天に上げられ終わったのではない。弟子達を置き去りにされたのでもない。約束通り今度はキリスト御自身が御聖霊となって来られ、弟子達の内なる命となり、これをキリストの教会として建て上げ、キリストの権威と使命を継承させ今も導いて下さっておられるのである。


教会は子供の成長と同じく日毎に変化し成長していくものだ。教会はキリストのからだとしての神の命が与えられているからである。神の命は神の愛そのものである。
「わたし達が愛し合うのは、神がまずわたし達を愛してくださったからである」とあるように愛の根拠は自分ではなく神なのである。即ちキリストの十字架にあるのだ。


世の人々はこれを知らず一切の根拠を自分に置く。だから問題が起きるとすぐ力が尽きる。又、どんなに善き事でも愛しても自分が根拠であるからエゴを脱することが出来ない。人間を駄目に不自由にしているのはこのエゴである。しかし、世の人はエゴが発揮できた時、自由を感じ生きがいを感じる。エゴが通らないと悲劇のヒーローになってしまう。今の世の政治、経済、社会をこの観点から見るとあらゆる問題の原因が見えて来る。「神がまず愛して下さった」ここにもう一度立とうではないか。
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by oume-akebono | 2013-06-03 10:31 | 週報メッセージ

(ルカによる福音書 24:5-6)  大谷 唯信 牧師



「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」



何と象徴的な奥深い言葉であろうか。恐る恐る生きた方-キリストを求めているのに、いつの間にか「何故、生きた方を死人の中に求めているのか」と言われてしまう状態になっているのである。「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」(ローマ人への手紙8:5)これは普遍的な命の原理である。即ち、霊を求め従っているつもりでも、そこに「敵意、争い、そねみ、怒り・・・」(ガラテヤ人への手紙5:20)等の思いが出て来るなら、実際は肉に従っているのだ。私達はこの現実を正直に直視しなければならない。


「肉に従う」のは無理からぬ事とも思う。何故ならこの世はすべて肉に支配されているからだ。私達はこの中で生まれ、この中で教育され、今に至っている。私達は肉そのものになっているのだ。肉とは自分中心であり、自分の理解、自分の考え、自分の納得、自分の好き嫌いの世界だ。正しさに於いても、温かさ美しさに於いても自分の思う通りを求める。その根拠は自分の人生経験、自分の知識等であり、結局は自分なのだ。この世はその積み重ねで成り立っている。


これは決して悪い事ではない。当然の事だろう。しかしこれで霊なるキリストを求めてゆくと、「何故、生きた方を死人の中に求めているのか」となってしまう。彼らは自分なりに立って求めているのだ。「その方はここにはおられない」。何と言う事か。おられるはずのキリストがそこにおられない。キリスト不在なのである。
「よみがえられたのだ」。と聞いた時、使徒たちですら「それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」とある。勿論、使徒たちはイエスを愛し信じていたであろう。しかし、「それが愚かな話のように思われて」なのだ。これこそ自分なりの愛であり、自分なりの「信じる」であったのである。


肉に従う者は肉のことを思い」となる。「霊に従う者は霊のことを思う」。切り替えるのだ。日々、自分なりを捨て「空っぽ」になって主を仰ぎ主につながる思いを持ち続けよう。これが「霊と真をもって礼拝する」ことになる。これがないと見かけは立派でも、キリスト不在の教会になってしまう。
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by oume-akebono | 2013-06-03 10:28 | 週報メッセージ