(コリント人への第一の手紙 1:18) 大谷 唯信 牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」



 教会は魂が救われ永遠の命が与えられるだけの場ではない。人間としての人間性、人格が常に成長し、「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」(エペソ4:15)場でもある。この世に於いても人間的成長については以前より関心が持たれているように思う。それは教育的と言うより社会的な課題にさえなって来ているのではなかろうか。


多くの人々は社会的問題、教育的問題、学校の有り方、家族の有り方等に解決の道を求めようとするが、どんなに研究され議論されてもその流れは変るものではない。肉は肉だからである。どんなに磨いてもガラスはガラス、決してダイアモンドにはならない。エゴはどんなに着飾ってもやはりエゴで変わらないのである。


しかし、イエスの十字架の力はエゴを砕き、私達の内面を神のいのちに代えて下さるのである。イエスを信じる信仰に神のいのちが注がれるからである。もし、イエスの十字架を私の人生への出来事として信じ受け入れるなら、誰もが神のいのちが注がれて新しくなる事ができるのだ。もし、これを本当に必要としているのなら、自分の常識では受け入れられないと思っても思い切って信じて見るべきであろう。自分の殻を捨て新しい自分にして下さいと神に本気で求めるなら、思いもよらない時に、「あっ、これだ!」と本当に信じられる事が起るのである。チャレンジしてみてはどうだろう。
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by oume-akebono | 2013-04-13 22:07 | 週報メッセージ