(ヨハネ14:24)      大谷 唯信 牧師



「一粒の麦が地に落ちて死ななければただ一粒のままである。しかし、死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」



近頃、愛の鞭か暴力かが取り沙汰されている。夫の妻への暴力、親の子供への虐待。いずれも愛の仮面をつけたエゴである。真実の愛からか、それともエゴからか、その内面の動機の深い所は第三者にはとてもわかりにくい。本人ですらわからない事が多いのだ。何故なら誰でも人間として「思い上がった時」は真実は見えなくなるからである。


真実は人が造るものではない。いつもそこに有るものである。ただ私達はそれをその都度発見するしかない。しかしエゴになると真実は見なくなる。過去の経験や知識があるから見えるのではない。それがかえって見えなくするのである。「たとい、わたしが全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」(コリントI13:3)と聖書は語る。即ち、どんなに高く正しい目標であっても自分の幸せ、自分の喜びと「自分のため」となっている限り、それは全く逆の方向へ行ってしまうと言う生命の原理を示しているのだ。


現代の教育は、この世の知識は教えても命の原理、普遍的な法則は全く教えていないため、今や大混乱を起こし、多くの悲劇を生み出している。命の原理、法則は人が考え出したものではなく、自然の法則、物理、化学の法則のようにすでに有り続けているのでありすべては神の命の法則の出来事なのである。人は自分の知識を土台とし判断をするため、神を認めず無視し、愚かな事として拒絶さえしている。それほど人はエゴにより高慢になり、完全でもないのに自分に頼り、自分の考えを支えにして自分にしがみつき、まわりの顔色をうかがいながらバランスを取り必死に強そうに生きているのである。


この世はますます混乱悲劇を生むであろう。これは社会、政治の問題ではない。もっと根本的な私達のエゴ(罪)の問題である。イェスは「一粒の麦」にたとえて御自分の十字架の死と復活の意味、さらに私達の生きる根本の有り方を示されたのである。
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by oume-akebono | 2013-03-25 11:13 | 週報メッセージ

(詩篇34:5)   大谷 唯信 牧師



「主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない」



 あなたは日々の思いわずらいでいつの間にか暗い心に取り込まれてはいないだろうか。真面目な人ほど自分の弱さや罪深さが気になって暗く滅入ってしまう傾向がある。そこでこの世的に気分転換して何とかやり過ごす事になる。勿論これも一つのやり方ではあるが、これでは何年たっても同じ事の繰り返しである。信仰によってどこか突き抜けていないのだ。順調な時は良いのだが、一寸何かあるとガタガタになってしまう。落ち込んだり他に当たったりである。この時こそ信仰の成長のチャンスとなる。


心を静め惨めな自分から目を離し「主を仰ぎ見る」のだ。御言葉に聞き、御言葉を信じ味わうのである。「『苦しむ者が呼ばわった時、主は聞いて、すべての悩みから救い出されたのだ』『王はその軍勢によって救いを得ない。見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある』と語られる。しかしどうにもならない時に「望む者」となるのはかなり難しい。望む者になろうとする自分にどうしても立ってしまうからだ。だから信仰によってその思いを一転させるのである。


ヘブル書には「一切の重荷と、からみつく罪とかなぐり捨てて、私達の参加すべき競争を走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ…」とある。アブラハムは「望み得ないのになおも望みつつ信じた」のである。絶望が飛躍台となり、信仰が飛躍となる。神は私達を信仰によってのみ立たせたいのだ。「信仰がなくては神に喜ばれる事はできない」主を仰ぎ見よう。主を仰ぐとはイエスの十字架を仰ぎ、その十字架に自分も主と共に死に主と共によみがえる姿を御聖霊の助けを求めつつ見る事である。祈るのだ。「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもってわたしたちのためにとりなして下さるからである」(ロマ8:26)
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by oume-akebono | 2013-03-25 11:10 | 週報メッセージ

(ガラテヤ5:16-18)      大谷 唯信 牧師



「私は命じる。御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない」



私達そして教会が成長するには「御霊によって歩く」以外はない。いよいよ私達は「御霊によって歩く」ことを求めようではないか。信仰生活は人間的な肉の力では絶対に出来ない。ただ信仰によって御霊の力により頼んで歩むならば誰にでも出来るのだ。「御霊の実」が豊かに実を結ぶのは神の約束である。


私達教会には神の命が与えられている事を覚えよう。そして命は必ず成長し、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ事を信じよう。私達の教会もやがて100人、150人の礼拝になってくる事であろう。「信仰の出来事」とするならば必ず実現する。そのためには日々その光景を信仰によって思い描き、信仰によってそれが観えるまで祈り込んでほしいのである。

「人には出来ないが神には出来る」との御言葉を信じよう。共に御業に授かろうではないか。これはすべての教会に与えられている神の恵みなのだ。ところがそうならない教会は残念ながら実に多い。原因はいろいろあると思うがその一つは、信仰に立っている積もりでも自分の考えに立つ、いわば肉的信者になっているのではなかろうか。これは私達も他人事ではなく、常に気をつけねばならない所である。誰もがそうであろう。だからパウロは「御霊によって歩きなさい」と言う事を「私は命じる」とまで言っている。それほど重要な事だからである。


知的理解の信仰はどうしても人の議論と考えに留まり、うまくいっても理解や感情に届く位のものであり命の力とはならないのである。たとえ聖書信仰に立っても正しい聖書理解であっても知識や理性の領域では生きた命とはならない。多くの教会がここで失敗しているのだ。御霊だけが御言葉に生きた命を吹き込み私達の命の隠れた根源に入って来られ神の真理の種を植え付け神の命として住まわれ、外からではなく内から、言葉ではなく力と命と真理となって御霊が働いて下さるのである。御霊を信じ御霊によって歩もうではないか。
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by oume-akebono | 2013-03-25 11:08 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 3:3)   大谷 唯信 牧師


「・・・だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。


まずはイエスを信じてみて、はじめて見えてくる命の世界である。それ以外では、絶対に見えない。ニコデモはサンヒドリン議員の最長老格の地位にあり、律法では厳格なパリサイ人であり、教師であった。多くの人々からも尊敬を受けていた人物とも言われている。社会的にも人間的にも飛び抜けて立派な正しい人であったのだ。その彼が「新しく生まれなければ」と、即ち、彼の全存在が全面否定されてしまった。


何に対してか、と言うと「神の国を見るには」であり、つまり「神の命に生きるには」と言う事である。では誰が「神の命」に生きられるのか。どうすれば「神の命」を得ることが出来るのだろうか。ニコデモは「もう一度母の胎に入って生まれるのでしょうか」とさえ訊いている。そこでイエスは「だれでも、水と霊とから生まれなければ、・・・」と答えられた。


水とは荒野のヨハネのメッセージの中心、アダム以来の肉の埋葬を意味する。「霊」はイエスの贖いによって、新創造による神の命の誕生の事である。キリストの名によるバプテスマは「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」。(ガラテヤ人への手紙2:19-20)との信仰告白でもある。


この世でどれほど立派で人格者であっても、「肉から生まれたものは肉である」。また、どれほど罪深く駄目なものであっても、「霊から生まれるものは霊である」。とイエスは言われた。どれほど求め、努力し訓練しても「肉は肉である」。決して神の命にはならない。しかし、多くの人が古い自分から脱皮して、新しく神の命に生きたいと思うには思っている。だが得られない。分からないからだ。否、分かろうとしているのだ。分かってから信じようとしている。


今も昔も変わらない。分からないから受け入れないのだ。逆である。聖書は「受け入れた者、その名を信じた人々には、神の子となる力を与えた」。とある。分かるのではない、「まずは信じる」。その信仰によって神の命に開かれ生かされるのである。
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by oume-akebono | 2013-03-04 08:05 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙12:10〜12) 大谷 唯信 牧師



「互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。熱心にうむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい」 



教会の成長と私達の成長は一つである。しかも成長は神から賜った生命によって神が成して下さるのである。これを受けるには私達が祈りの中で御言葉を実践し、一人一人が生活の中でこれを味わい自分の体験としての証しを持つことであろう。「この御言葉は本当だった」と確信を持って言い切れるあなたになることだ。サタンの巧妙さに陥らないためである。


サタンの目的は一つ、私達をキリストから、教会から離れさせ、信仰を駄目にする事である。それにはまず喜びと祈りと感謝を奪うのが一番手っ取り早い。気をつけよう。とにかく祈るのだ。常に祈り、主と共にいる思いを持ち続けよう。祈りによって教会に仕えるものは決してつまずかない。御言葉による祈りには神の力が注がれ国籍や障害までも神の恵みとして感謝に変えられる。しかし感謝のできない出来事にも勿論ぶつかるだろ
う。その時こそ信仰によって神に感謝し神の最善を信じ祈るのである。


次に大切な事は霊に燃える事である。赤々と燃えているストーブは何と暖かく何と魅力的であろうか。私達はそのような自分、そして教会になろうではないか。すでに火種は灯され、霊の火は燃えているのだ。これを信仰によって受けとめ大切にしよう。主の願っているように霊に燃え、主に仕えよう。今や私達が熱源となって互いに尊敬し合うのだ。


誰に話してもいつくしみと尊敬の思いをあふれさせよう。受けるより与える者になるのだ。信仰を持って天に宝を積む者となろう。日々、御言葉を実践する者となれ。人からの報いを求めてはいけない。そうすれば神の時の中であなたの人生の流れが静かに、しかし確実に大きく変化していく。望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈り続けようではないか。
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by oume-akebono | 2013-03-04 07:56 | 週報メッセージ

(イザヤ40:28-29)      大谷 唯信 牧師



「主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」



イスラエルの民に与えられた主の約束は今やキリストを信じる信仰によって新しきイスラエルの民とされた私達教会に与えて下さっているのである。神が私達を選び教会として立てて下さった。その理由はその昔、イスラエルを選んだのと同じである。


「主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたをえらばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうちもっとも数の少ない者であった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあがない出されたのである。」(申命記7:6-8)と言われている。


この世は知恵ある者、賢い者、力ある者を選ぶ。今でもそうであろう。しかしパウロは語る、「この世は自分の知恵では神を認めるに至らなかった。それは神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって信じる者を救う事とされたのである」(コリントI1:21)と。


そこで「神は知者をはずかしめるためにこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、即ち、無きに等しい者をあえて選ばれたのである」と語る。正に私達の教会そのものではないか。キリスト教は理想的な教えや考え方、教訓の寄せ集めではない。現実のこの世の歴史の中に入り込みイスラエルの民との関わりを通し、神がいかに私達を愛しているかを現実の出来事として示しって来て下さっているのだ。その中に今、あなたも居る事に気づいてほしいのである。
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by oume-akebono | 2013-03-04 07:53 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1:17)   大谷 唯信 牧師



「キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。」  



 福音は人間の知恵によって語られる時、キリストの十字架は無力になってしまう事をパウロは語っている。では知恵を用いずに何によって語るのか。それこそ信ずる信仰によってである。さらに「十字架の言葉は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には神の力である」と語る。


パウロの語る福音は常に十字架の福音であった。彼にとっての毎日の生活は、何をするにしても寝ても覚めてもキリストの十字架であったのだ。「神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった」と言う。彼は当然「巧みな知恵の言葉」を自由に使うことができたであろう。彼の博識、雄弁さを持ってすればどんな者も説得し心に感動を与え魅了してしまう事もできたであろう。


しかし彼は敢えてそれをしなかった。それはどんなにすぐれた言葉でも人間の力である知恵は肉であり、それがどんなに感動を与えたとしても肉は肉であって神の命ではないからである。私達は「からし種一粒」ほどにちいさくてもよい、信仰に立って証しをしようではないか。自分は無力でいい、無力だからこそ主に寄り頼めるのだ。信仰に立って語るならば御言葉自身が御聖霊によって語って下さるのである。主は御言葉を信仰によって語る器を必要としておられる。


ここで気をつけねばならない事がある。永年の信仰生活によって十字架のメッセージ、罪や救いの御言葉にどこか慣れ過ぎてもはや何の新鮮さもわくわく感もなく聞き流していることはないだろうか。慣れと惰性に気をつけよう。今の多くの教会の問題は聖書や福音に接しているのに自分の生活や生き方、夫婦、親子のかかわりに何ら影響を与えていない事である。そこまでの信仰が足りないのだ。改めて私達は十字架の命に死んで生きる信仰に立とうではないか。
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by oume-akebono | 2013-03-04 07:34 | 週報メッセージ