(マタイによる福音書 16:15-16)  大谷 唯信 牧師



「『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。シモン・ペテロが答えて言った、『あなたこそ、生ける神の子 キリストです』。」




近頃、もっと「向き合う」べきと言う言葉を、親子、夫婦に対してアドバイスしたり、反省の声として耳にすることが多くなっていると思う。怒りや文句のぶつけ合いではない。人間としての、人格的な心からの対話だ。そういう目でまわりや自分を見ると、何と向き合う言葉が少ないことか。


向き合った言葉には、必ず何らかの衝撃が起こるものだ。現代人はこの衝撃に耐えられないのかも知れない。衝撃が起こらないようにしてしまう。第三者の話や一般論にしてしまう。そこには語った私も、それを受け取るあなたもいない。人間不在だ。だれも怪我をしないで済むのだ。安全な中で会話だけが流れる。これでは互いに閉じこもっての会話ではないか。内容は正しくとも、まるで点けっ放しのラジオが勝手にしゃべっているようなものである。これでは何時間話していても、まず触れ合うことは起きて来ないであろう。


その点、イエスは何と見事に一人ひとりに向き合って行く事か驚くのである。初めは弟子達に人々は私の事を何と言っているかを問う。弟子たちは次々と先を争うように自分の知っている所を述べる。得意にさえなる。これは何を言っても安全だ。一般論であり、他人の事だからだ。自分に危険が及ぶことはない。しかし、これは本論ではない。本論に近づくための助走である。


ところがどうであろう。私達はこの助走のところで終止している事はないだろうか。イエスは言われた。「それではあなたは・・・・」と切り込んだ。向き合ったのだ。瞬間、緊張が走る。沈黙が起こる。それぞれ自分と向き合うからだ。現代人はこれが苦手だ。避けてしまうのだ。本当は心の底で分かっていても、それと向き合わない。つい楽な方、安全な方を選ぶ。


勇気を出して、これを受けたのはペテロであった。イエスと向き合ったのだ。実にここから新しい人生の局面が現れるのである。勇気を出してイエスと向き合ってみよう。
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by oume-akebono | 2012-11-18 23:00 | 週報メッセージ

こんにちは!

あけぼの教会では、秋の特別集会を来週日曜日に予定しています!教会は興味があるけど行ったことがない、という方や神様についてもっと知りたい方!ぜひぜひこの機会においでください。

いつもより証したっぷり、賛美歌たっぷり、そしてハンドベル演奏もあり!
午後にはお茶の準備もしてあります。みなさまのお越しをお待ちしています!

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by oume-akebono | 2012-11-12 08:10 | 集会案内

(使徒行伝1:14)      大谷 唯信 牧師




「彼らはみな、イエスの兄弟達と共に、心を合わせて、ひらすら祈りをしていた」



 祈りは絶望の中から始まる。自分の無力さ、弱さ、暗さにおおわれた時、その絶望をそこに置き、自分を手放し主を見上げ自分のそのままの思いを祈りを持って語り、神の最善を求めてみよう。何もわからなくなった時、もう何も考えられない、何も出来ないと思える時…誰でもこう言う時があるのだが、この世の人は悲しみの中でのた打ちまわるだけである。しかし私達はここで祈る事を知っている。イエスの名によって祈るのだ。御聖霊が必ず信仰へと導きいやしと希望の中に入れて下さる。「何故なら、わたし達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたし達のためにとりなして下さるからである」(ロマ8:26)
 

キリスト者の喜びはただ喜んでいるのではない。常に自分の中にある罪の弱さに絶望しつつ、だからこそ祈り主を見上げ聖霊の助けによって喜びあふれているのである。自分への絶望からの祈りが聖霊を呼び、聖霊が信仰を呼び、信仰が希望を与えて下さるのである。
 

キリスト者は常に弱さ、絶望、死を身に感じているものだ。だからこそ祈る。すると御霊により生きる命があふれ、喜び平安、確信に満たされる。その根拠はわたしではなくキリストにあるのだ。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きているのである」(ガラテヤ2:19-20)が自分の中に起きてくるのである。そうなるまで祈ってほしい。
 

祈りが不足している信仰生活は苦しいものとなる。エンプティーのマークが点灯したのだ。給油の必要がある。それは祈りだ。キリスト者はこの世の肉の世界にいながらにして神の命の霊の世界に生かされている。この霊の領域を深め拡げていくのは聖霊を信じての祈りにある。使徒教会はこの祈りによって進んだ事を覚え私達もそれに続こうではないか。
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by oume-akebono | 2012-11-12 07:54 | 週報メッセージ

(使徒行伝 2:4)     大谷 唯信 牧師



「すると、一同は聖霊に満たされ・・・」



無力な弟子達に主の約束どおり聖霊が注がれた。「ただ聖霊がくだる時、あなた方は力を受けて、地の果てまでわたしの証人となるであろう。」(使1:8)が成就したのである。聖霊は神の霊であり神の命であり霊なるキリスト御自身なのである。これによって教会は生まれた。教会の全ての働きはこの聖霊の力によって前進する。組織でもなく制度でもない。人の主義主張でもない。ただ、神の命である聖霊によって、しかも私達一人ひとりの中から始まる全てを新しくしてしまう霊的革命なのだ。


現代は病んでいる。それは誰もが認めざるを得ないと思う。しかしそれに手を打つ決め手が何一つないのが現状だ。人々は精神的に渇き切っている。恐れ、不安、利己主義、それは自分なりの正しさにしがみつく自己中心の病気である。だが病気と言う自覚がないのが特徴であるから恐ろしい。小学校の学級崩壊、いじめどころではない、今や地球崩壊、社会崩壊、否、人格崩壊にまで及ぶきざしが全世界に現れているのではなかろうか。聖書はすでに数千年も前から警告している。「義人はいない。一人もいない。神を求める人はいない。彼らの足は血のの流すのに速く、彼の道には破壊と悲惨とがある、彼は平和の道を知らない。彼らの目には神に対する恐れがない」(ロマ3:10-18)と。今こそ原点なる神の命に立ち返るべきである。


ソロモンが若くして王位に就いた時、国の復興を神に求めた。その答えは「わたしの民が、もし、へりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす」(歴代志下7:14)と言われた。霊的リバイバルを受ける神からの条件である。私達教会も自らの弱さを覚え「ただ聖霊がくだる時、力を受けて・・・」とされる事を信じ祈り願おうではないか。
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by oume-akebono | 2012-11-12 07:52 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 5:16)   大谷 唯信 牧師



「・・・あなたがたの光を人々の前に輝かし、・・・」



イエス・キリストを心の内に持つ者は、すでに神によって「地の塩」「世の光」とされている事を認めるべきである。自分の力によってではない。神によってそうされたのだ。イエスは「地の塩」になりなさい、とか「世の光」になるべきだ、と言われているのではない。すでにそうされているのである。それは血筋ではなく、能力でもなく、人の計画でもない。ただ神によってである。イエスの名によってバプテスマを受けた者は誰でも遠慮してはいけないのだ。


大胆に、確信を持って「わたしは地の塩、世の光である」と信じ、告白しようではないか。自分の努力や力でそうなったのであれば、少々遠慮して、余り言わないでいるのが美徳かもしれない。しかし、それほどの力があり、正しい人は世界中に誰もいない、と聖書は語る。「・・・義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、・・・」(ローマ人への手紙3:10-11)ただ、イエスの十字架の福音を信じた者だけが、その信仰によってそうされているのである。


しかもその信仰の根拠は自分の信仰、自分の力では全くない。あなたの信仰の根拠は神御自身である。あなたはかつては何でも出来なければいけないと思ってきた。いつも出来る所で勝負してきた。だから、勝っても負けても自分と言う殻の中に閉じ込められ、自我の誇りや失望に振りまわされていた不自由な自分であった。それが信仰を持っても、またもや自分の信仰、自分の力で勝負するのだろうか。これでは信仰による自己実現ではないか。神の力を利用して自己実現をするエゴそのものである。


気をつけねばならない。今迄の古い生き方、行動パターンが出るのである。もう一度確認しよう。私達は何も出来ないのだ。「自分は何も出来ない」と悟った時、無限に神の世界が拡がるのだ。この世の人は「出来る」所で勝負する。キリスト者は「出来ない」所で勝負するのだ。「人には出来ないが神には出来る」からである。根拠は神にある。出来ないからこそ、信仰によって強いのである。
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by oume-akebono | 2012-11-12 07:50 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書16:24-25)   大谷 唯信 牧師




「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」



 聖書は、世の中で人の心ほど醜く嘘偽りに満ち自他共々に騙す汚いものはないと語っている。即ち「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。誰がこれを、よく知る事ができようか」(エレミヤ17:9)と語る。そもそも聖書は創世記の始めから終り迄、人間がいかに罪深く滅びの中にいるか、それでも神はイェスによって救いの道を与えて下さっておられる事が語られているのである。


現代の大きな問題は、人々に罪の自覚がほとんどない事である。一般的な考えでは人間の弱さ、罪深さも知っている。毎日報道される犯罪事件には皆、心が痛むのである。しかし、自分が罪人である等の自覚はほとんどない。聖書は「義人はいない、ひとりもいない。すべての者は罪を犯したため神の栄光を受けられなくなっており」(ロマ3:23)と言っているが、それを聞いたとしてもほとんどの人が自分はそれほど悪くないと思っているからだ。


「それは人間だから…、完全ではないし…、でも」という具合である。あなたはどうであろうか。救いの確信の深さは罪の自覚の深さによるのである。自分の罪の深さの痛みを知るほどそれが赦された喜びは大きくなる。救いの確信が満ちるのである。
 

イェスは「自分を得ようとする者は失い、自分を捨てる者が得る」と言われた。現代人は自分にしがみつき自分を守り自分を建てようとする。エゴの典型である。だから病気になる。自分で自分は捨てられない。ただイェスを信じ従う時のみ自分を捨てる事が始まるのだ。自分を手放しイェスを仰ぎ見ればよい。聖霊はさらに捨てるべき自分や罪に目を開かせ自分の思いと神の思いとを見分けさせて下さるのである。御心に添うた悲しみは命を得させ、この世の悲しみは死を来たらせる」(Ⅱコリ7:10)のだ。主を信じ一歩を踏み出そう。
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by oume-akebono | 2012-11-12 07:41 | 週報メッセージ

(テサロニケ人への第一の手紙 5:23) 大谷 唯信 牧師



「平和の神ご自身が、あなたがたを徹底的に聖別し、あなたがたの霊と魂と体とを完全に守って・・・」

 

この世で言う人間理解は心と体の二つを心理的、身体的に捕らえようとするのが一般的である。近年になって特に精神的な病が増大し、小中高の子供から大人に至るまで「心を強く」「心を豊かにするために」等が叫ばれいろいろ対応がなされているが根本的にはどうしてよいのかわからないのが現状ではなかろうか。
 

聖書は人間を、まず神が御自身の形に創造された霊的存在として捕らえている。新約聖書回復訳の解説がわかりやすいので参考にしながら話して見よう。上記の御言葉は霊と魂と体の三つから成る事を示す。霊は自分の最も深い部分の内なる器官であり、神の知覚があって、私達を神に触れさせる(ヨハネ4:24)。


魂は私達の自己そのものであり、私達の霊と体の間にあり人格を持つ。体は私達の外側の部分、外なる器官であってこの世への知覚を持ち私達を物質の世界に触れさせる。体は魂を入れる器であり、魂は霊を入れる器である。霊の中にはその霊としての神がその人の信仰に応じて住まわれ、魂の中には私達の自己(自我)が住み、体の中には物質への五感、欲望が働いている。神はまずキリストによる新生を与え私達の霊を所有され聖別して下さる。


次にキリストの力を魂へと広げ浸透し、それを造り変える事で聖別される(ロマ12:2)最後に私達の魂を通して、死ぬべき体を生かし(ロマ8:11、13)、聖別して下さるのである。しかし救われてすぐに完全になるのではない。失敗しながら成長するのである。始めは皆、幼いクリスチャンなのだ。幼いとは救われても肉的なのである。私達は日常、心で生きている。その心は霊と体の間にはさまれ、両者の影響で動いているのだ。心の判断で霊につくか肉につくかにかかっている。「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」(ロマ8:6)とある。霊を育てるには霊の食物である御言葉と教会に養われる事だ。霊の成長を求めよう。
























             
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by oume-akebono | 2012-11-11 22:11 | 週報メッセージ

(詩篇 34:6)     大谷 唯信 牧師



「主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。」



あなたは日々のわずらいに、いつの間にか取り込まれてはいないだろうか。真面目な人ほど自分の弱さや罪深さが気になって、暗く滅入ってしまう。もし、そうだとしたら、これでは何年経っても同じ事の繰り返しである。どこか突き抜けていないのだ。順調な時は良いのだが、一寸何かあるとガタガタになってしまう。


この時こそ、心を静め「主を仰ぎ見て、光を得よ」との御言葉を聞こう。「王はその軍勢の多きによって救いを得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。・・・見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。」(詩篇33:16,18)と主は語られる。しかし、どうにもならない時に「望む者」となるのは、なかなか難しい。何故か。それは一番当てにならない心の力でやっているからである。


もともと心は弱いもので自己中心で、どれほど決心しても、状況によってはコロコロ変わる。だから昔からココロと言われるようになったと言われているくらいだ。聖書でも「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ書17:9)と言われている。どうだろう。


現代人はこのように弱い心の上に自分の人生を築き、崩れかかると「もっと強く!もっと強く!」と叱咤したり、補強したりしているのだ。その結果、今や国民病とまで言われるほどうつ病が蔓延し、精神的に追い詰められ、事件となってしまう悲劇が繰り返されているこの頃である。イエスはこれを「砂の上に家を建てた愚か者」と言っている。「どんなに立派に見えても、やがて雨が降り風が吹くと倒れる。」と警告しているのだ。バベルの塔のような高層ビルが立ち並ぶ現代社会、また現代人である我々への警告である。


イエスは砂の上ではなく「岩の上に家を建てた賢い人になれる」と語られるのであろう。これを聞く謙虚な耳を持ち合わせている者は、だれであろうか。もしそうなら、まず、聖書の人間理解を深める事である。
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by oume-akebono | 2012-11-11 22:03 | 週報メッセージ