(テサロニケ人への第一の手紙 5:23-24)   大谷 唯信 牧師




「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く(徹底的に)きよめて(聖別して)下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。」




何と素晴らしい約束であろうか。神御自身がイエスを信じる者を徹底的に清め聖別し、私達の霊と魂とからだを完全に守り、キリストの来臨の裁きに於いて、責められるところのない者として下さるという約束である。私達の力ではなく、ただ信仰によって与えられている神の恵みである。


ここで聖書は人を霊、魂(心)、体の三つの部分から成っている事を示している。この世では、普通は心と体として捕らえているが、最近はスピリチャルケアーと言って、精神的ケアーの必要性も言われてきたが、実際は心理学の域を脱せず、表面的なもので終わっている。学問的、論理的に語られていても内面には届かないのが現状である。


神の言葉による人間理解は人を二つではなく、霊、魂、体の三つの部分として、神が造られている事を示している。ここで、私達が神が聖書を通して語られている人間観を知る事は、自分を成長させるためにも、また、聖書を理解する上にも有益と思う。一般では、霊も魂も表現は色々あっても“同じもの”と考えられていたりする。これでは自分を成長させることも、聖書を理解することも出来ない。
人の考えは、色々な状況から観察し、推論の積み重ねでの理解である。聖書は神から直接聖霊によって、神の選ばれた者たちに啓示されたものであり、人間の推論の入る余地は無いのである。この世は古くからの猿の骨を寄せ集め推測し、人は猿が進化したものとし、もともとは猿だという進化論説があり、日本では一般的になっている。


一方、世界的には聖書に基づき神が人を御自分に似せた人格として、高潔な霊的存在として創造されたと言う創造論説である。私達はこれから聖書の示す人間理解を深めていく必要があるのではなかろうか。
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by oume-akebono | 2012-09-23 07:46 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙3:1) 大谷唯信牧師



「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである」 



神は全世界の人々がクリスチャンとなって神の子とされ死や一切の不安から解放され永遠の命を得て、この世のあらゆる逆境の中にも確信と喜びの声を持って生きる事を願い、独り子イェスを救い主として私達に与えて下さったのである。クリスチャンになるためにはどうしたらよいのだろう。それは難しいものではない。子供でもできる実に簡単で驚くほどである。


今迄の自己中心の罪を悔い改め、イェス・キリストを自分の救い主として受け入れ、イェスの名によるバプテスマを受け、これからは自分ではなく神様を中心に生きる決意をもってイェスと共に歩む人生をスタートさせる事である。その時、聖霊が注がれ私達の中にイェス・キリスト御自身が住んで下さり力となり知恵となって導いて下さる。なくてはならぬものは一つ、イェスを信じる信仰のみである。


小さな信仰、からし種一粒の信仰があればよいとイェスは言われた。聖霊が成長させて下さるからである。しかし信仰は神様からの啓示が心に与えられなければ生まれようがない。啓示とは神様が心に働きかけて下さることである。即ち、何回か礼拝に出席し、メッセージを聞くうちに、自分の今の状況にかかわりなく「イェスを信ずべきだ」「わたしに従って来なさい」との語りかけを心の奥に聞く事である。


メッセージを聞いたから信ずるのではない。メッセージをきっかけに神からの語りかけを心に示される、これが神からの直接の啓示なのである。神はその他、人や出来事、状況等、あらゆるものを通して心に直接語りかけておられるのだ。クリスチャンになるとさらに多くの啓示を受ける事になろう。これを逃がしてはならない。だから冒頭の「上にあるものを求めよ」と言うのである。心の内を見るのではない。「上にあるもの」即ちキリスト御自身を求める事である。
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by oume-akebono | 2012-09-21 20:00 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙6:10-11) 大谷 唯信 牧師



「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」 



サタンの働きは巧妙で常に霊から引き離し「肉の働き」(ガラテヤ5:19-21)に引き込もうとする。私達教会が霊の命に目覚め、さらなる成長に向かわんとするほど活発に彼は動き出すのだ。最もらしい理由のもとに互いに争いを起こさせ、ねたみや、党派心を引き起こし分裂させようとする。それだけではなく霊的な事柄においても競争させ較べ奉仕や捧げ物をするその中にも肉の思いを秘かに起こさせようとする。さらに教会一致、福音宣教を願うその中にも理解や方法のちがいで争いを起こさせる。

何と多くの教会や信者が成長を妨げられて来たことか。しかしサタンは決して姿を現さない。互いに相手の間違いを原因として争わせるのである。
私達は気をつけよう「もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。


ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。」(ヤコブ3:14-16)と聖書は語る。あらゆる争いの背後にはサタンがいる事を覚えよう。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)
 詩篇35篇を読んでほしい。「主よ、わたしと争う者とあらそい、わたしと戦う者と戦ってください。」と主にサタンと戦っていただくことを祈っているのである。


サタンが人を利用して混乱を起こす時、主に祈ってサタンの口をふさいで黙らせる事ができるのだ。サタンはこの世の人の目をくらませ信じないように今も働き続けている。だからこそ私達は「そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈り続ける」
(エペソ6:18) のである。
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by oume-akebono | 2012-09-12 23:16 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書1:12-13)   大谷 唯信 牧師



「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力(資格)を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。」



キリスト教と他の宗教の異なる点は、教えや教理がキリスト御自身の上に建てられていることである。日本では仏教、儒教等から文化、教育、道徳、人生観等に大きな影響を受けている。その中心は孔子や釈迦その人にあるのではなく、彼らの語った教えや教理、主義が中心と言えよう。その他多くの宗教があろうが、教祖は理想とする教え、教理、規則等を作って宗教の内容としたのである。


キリスト教は教理や教えの上に建てられたのではなく、初めからキリスト御自身なのである。道について教えたのではない。「わたしが道である」とご自分を示された。真理についてとか、命について語ったのではなく、「わたしが真理であり命である」と教えや教理としてではなくキリスト御自身を示されたのである。


聖書が一貫して語っている事は、キリストが神であり、キリストが救いである事を証しているのである。私達が気をつけねばならない事は、長年、聖書を読んでいると、いつの間にか御言葉が教理的に神学的解釈や教義学的理解に走り、それがキリストを深く知るとの錯覚に陥ることだ。勿論、学ぶ事は大切である。しかし知識として頭に入れるだけになりやすいのだ。「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリント人への第二の手紙3:6)からである。また「知識は人を誇らせ、霊は人の徳を高める」のである。


霊から来る知識は深い。キリストにつながっているからだ。この世での知識はほとんど肉にある事を覚えよう。どれほど優れていても「肉は肉」である。イエスは「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」(ヨハネによる福音書6:63)と言われている。
どうしたら霊の人として生きる事ができるのか。冒頭の御言葉にあるように、イエスを信じ、イエスを迎え、共に生きる事である。
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by oume-akebono | 2012-09-06 07:03 | 週報メッセージ