マルコ10:47~48  大谷 唯信 牧師

「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と叫びだした。多くの人々は彼を叱って黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた」

 
 現代人は心の奥にある魂からの叫びを忘れてしまっている。どんなに幸せな人間でも心の奥には満たされなかった暗い部分、言い知れぬ孤独感、不安、恐れがあるものである。
相手が心配してどんなに手をさしのべても届かない。自分でもよくわからない。
どうにもならない不安と恐れである。

しかし、大半の人は身のまわりの忙しさや楽しさで結構心のバランスを取る事を経験的に学んでいく。しかし解決はしていないのである。子どもの頃の一寸した両親の理解のない一言が心に突き刺さり痛みとなってその根源的な恐れと不安を拡げる場合もある。
勿論両親はそんな積もりもなく愛情いっぱいなのだ。

やがて年齢と共に成長し社会に出ていくのであるが問題は全く解決していないのである。
地下のマグマのようにいつ噴火するかわからない。不安があると理性というアスファルトで敷きつめた道路のように整備してしまう。一見きれいにはなるが何も解決はしていない。
根源的な魂の叫びを心の奥に封じ込んでしまっているのだ。
そのため社会や人に対する不平、不満に怒りは満ちる事になる。その根本が解決されていないからだ。

バルテマイはその解決を得たのである。盲人であり乞食であったがために幸いした。
自分に絶望したからこそ無我夢中でイエスに向かって魂の叫びを叫び続けることができたのであった。

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by oume-akebono | 2007-09-30 18:56 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙3:1~2)  大谷 唯信 牧師

「あなた方はキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」


神は私たちが日々新しく造られる事を願っておられる。
神はそれがお出来になる御方である。
しかし神は一方的にそれをなす事はなされない。私達の協力を必要とされるのだ。
それは私達の思う「思い」なのである。
すべての行動は行動を起こす前のこの「思い」から出てくるからである。

私達は常に変化する現実の中でいろいろな思いが絶えず出てくる。ここで大切な事は良きにつけ悪しきにつけ、その内のどの思いを選び取るかによって自分の行動が全くちがってくると言う事だ。そこで御言葉は語るのである。
「あなたがたはキリストと共によみがえられたのだから、上にあるものを思うべきであって地上のものに心を引かれてはならない」と。

初めは「そう言われても地上のものに心をひかれてしまう」との思いも出てくるだろう。
だからこそ、それ以上に上にあるものを求め、上にあるものを思い続けるのである。
時には必要に応じて御言葉を味わい、集中して思い続けるのだ。
忙しく動きまわるのではなく心を静め御言葉に深く沈み込み御言葉が自分の思いと一つになるまで思い続けるのである。

そうすれば御聖霊が助けて下さる。思いを清め強め確信と平安で満たして下さる。
これがクリスチャンの特権である。
「あなたがたはキリストと共によみがえられたのだから」である。

十字架のキリストが私達と共によみがえり、古き人を捨て、造り主のかたちに従って新しくして下さるのである。思いをサタンに奪われてはならない。

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by oume-akebono | 2007-09-23 18:27 | 週報メッセージ

(Ⅱコリント4:4) 大谷 唯信 牧師

「この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」

人間の「思い」がサタンによってくらまされてしまった。
「思い」とは人間の知識、考え、気持ち等すべてを含む「思い」である。

人へのサタンの誘惑はアダム以来、思いに向けられている。
本来、思いは創造主なる神を中心として働いていたがサタンの誘惑により神を離れ思いをくらませられて以来、すべての人間は神の真実が見えなくなってしまった。
しかもサタンの思いに従うほうが同調しやすくなっているのが現状である。

さらに今や神を離れ自己を中心とした思いがごく自然の思いをなっている。
神を受け入れ神の御心に従うほうが不自然であり違和感を感じる思いになってしまっているのである。それほど私達は罪の世界に慣れ親しんでしまっていると言える。
これを聖書は「すべての人は罪を犯したため、神の栄光が受けられなくなっており」と語っているのだ。

ではどうすれば救われるのか。
それは難しいものではない。自分の罪を悔い改めてイエスを救い主として信じ、イエスの名によってバプテスマを受けることである。そうすれば聖霊が注がれ神の生命を注いで下さるのである(使徒2:38)。
救いは信じる信仰によって一瞬にして救われる。内面の生命は即座に救われるのだ。
しかし、ここで大切な問題がある。これを理解していないために多くのクリスチャンの成長が阻まれている。それは「思い」である。

「思い」が旧態依然として古いままなのである。「思い」は常に御言葉と御霊によって新しく造りかえられなければならないのである。

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by oume-akebono | 2007-09-16 16:33 | 週報メッセージ

9月9日 神の選び

(ヨハネ15:16) 大谷 唯信 牧師

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためである」


 私達が今ここにいるのは「神の選び」によるものと主は言われる。
これは今という時に中々わからないものだ。自分の思いで来ていると思うし、たまたま友人に誘われて等と思うからである。

しかし、主の選びはそれら一切を含め、同時にそれら一切を超えて神の選びによって導かれていく。勿論その一つ一つの出来事の中では自分の意思的決断に切り替えられた時、神の選びとしての上からの力が一層注がれて確実なものとなっていくのである。
すべてが信仰の出来事、神との出来事としてである。

神は私達の意志を無視する事はなさらない。何故なら自分の意思は他に譲ってはならない主体性として神が与えて下さったものだからである。その自分の意思によって信仰による決断がなされた時、神の喜びは天を揺るがすほどのものとなる。
信仰による決断は自分の力を見ての可能性ではなく、むしろ自分の無力を知り神のあわれみにすがりつつ自分の思いを御言葉になぞらわせていくことにある。

あわれみにすがる等と言うと何か心にひっかかる方もいると思う。
本日調布教会に牧師として就任する信道牧師は30数年前、母の胎に入った時、母は重病であり子供をあきらめなければ生命の保障はないとの医師の通達。その中での「産みます」との決断は何の保障もない。ただ神のあわれみにすがる他なかったのである。
それが今日と言うその子の牧師就任式を誰が予想したであろうか。
新ためてこの日この御言葉が響いてくるのである。

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by oume-akebono | 2007-09-09 00:00 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙12:2)  大谷 唯信 牧師

「むしろ、心を新たにすることによって造りかえられ、」

 「心を新たに」と言ってもどういう事なのか漠然としている。
この場合、心とは「思い」(考え、気持ち、等の意味を含む)である。
「考え」となると単なる知識となりやすい。「気持ち」となると感情的、情緒的になりやすい。

「思い」は外から来るあらゆる知識、状況や内から来る感情等すべてを統合しての思いである。
即ち、御言葉や教理を頭だけで知識として理解しているのではなく、又、感情的にエキサイトして異様に興奮を求めたり、又、逆に落ち込んでしまって無気力なまま暗い中を漂っているのでもない。

これらのあらゆるものを心で受けとめて、それによって自分の中から起るいろいろな思いの中からどれを自分の思いとするかを判断し造り出す事である。

何もかも流れにまかせて自分を手放してしまうのは危険である。思いは他人まかせではなく自分で選び自分で持つのである。思いは自分で支配しなければいけない。そのように神様からまかされているからである。

神に委ねると言う事は自分を手放して受身になる事ではない。思いは自分の主体性で自分の意志的決断をもって選び取り方向を決め自分の「思い」とし、それをしっかりと握りしめることが大切なのだ。

しかし、どんなに救われて内なるものは新しくされても自分の「思い」が一向に変わらず昔のままであるならば内なら生命は外に出ることが出来ず旧態依然とした肉もの行動パターンが出る事になる。
「思い」は常に御言葉に立ち、何が神の御旨であるか、何が善で神に喜ばれるか吟味し御言葉に立つ思いになった時、神の力が発揮されるのである。

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by oume-akebono | 2007-09-02 01:00 | 週報メッセージ

はじめまして!


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                    牧師 大谷 唯信



「あなたがたは世の光である」  (聖書)

花は光を求め、光の方を向こうとしています。
命が求めているからです。光を得られないと、十分な成長はできません。
私たちも同じです。光を得ると、人は輝き出します。


あなたは輝いていますか?
あなたは充実していますか?
戸を閉めきった中で、暗さを嘆きながら生活しているようなことなないでしょうか。
そして、こんな事を思ったことはありませんか?


「もっと自分を自分らしく発揮したい」
「本当に自分って何だろう?」
「もっとちがった生き方があるはずだ!」


教会は自分を発見する場、生き方を学ぶ場です。
クリスチャンだけが集まる所ではありません。
人間としてさらに成長し、本来の豊かな自分になりたい方に最高の場です。


どうぞ私たちの青梅あけぼのキリスト教会においで下さい。
共に自分らしく輝こうではありませんか。










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by oume-akebono | 2007-09-01 02:00 | 牧師ご挨拶

地図 ~ACCESS~

教会への地図です。

JR青梅線日向和田駅下車(JR立川駅から約40分)

徒歩5分。紅梅苑となり。

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by oume-akebono | 2007-09-01 01:00 | 地図