【証し】

私が神様(主)と出会ったのは、二十二歳の時(今から二年前のこと)です。
当時、私は美大受験に四度失敗し、浪人四年目を向かえ、この先自分自身がどうなっていくのか、不安でたまらない日々を送っていました。

 予備校で私を担当していた、ここの教会員である森元先生に浪人時代中、聖書やイエスさま、神様のことなどを聞いてはいましたが、私はそれらのことよりも、自分のことで精一杯なのと、両親が離婚していることもあり、母から注がれる愛情を感じてはいましたが、母の愛だけでは私の心は満たされず、いつも私の心の中は孤独を感じていました。その足りない愛(孤独感)を森元先生を父親のような存在として、慕うことで埋め合わせていました。

 しかし、先生をいくら父親のように求めても、本当の父親になれるはずもなく、私が求めている愛にも限界を感じていました。
 そのような中にあって、四浪目の時のある森元先生との電話の会話で、初めて聖書、神様、イエスさまの話しに目が向くようになりました。

 その後、あっという間に、教会に行こうと決意し、導かれるままに教会に通いつづけ、教会に来てから、四ヶ月目にイエスさまを主と信じ信仰告白をしました。けれども、信仰告白後、母親や妹などの猛反対があり、バプテスマ(洗礼)を受けることができませんでした。
 そして、この二年間バプテスマを受けずに教会生活を送りました。二年間にはさまざまな主からの試練(鍛錬)を与えられました。

最初は母の反対を押し切って、教会に通うこと。住んでいる場所がこの教会から二時間以上もかかることもあり、体力的にも精神的にもボロボロになってしまうことが幾たびもありました。その度に「イエスさま助けて!」と必死に叫んだことを覚えています。そして、主は私を幾度と無くまもってくださり、毎週の礼拝に出席できる恵みを与えられました。

その中にあって、妹と口を聞かなくなる時期が続いたり、母との関係は悪化することしばしば、大学、バイト、その他の人間関係においても、上手く行かないことはしょっちゅうありました。
けれども、状況が悪い中にあれば、あるほど、私はイエス様を求め、「イエスさま助けてください!」と叫び、主(ご聖霊)の導きによって、教会に関わる機会が増えていきました。
多い時で週に四回、二時間以上かけて、教会に通う時もありました。

どのような状況下にあっても、主を求め続けた自分。
『主の御名を求める者は、すべて救われる』(ローマ人への手紙10章13節)
この御言葉は実現されます。そして、私は今年、二十四歳の誕生日の翌日、バプテスマを受け、主の救いに完全にあずかることができました。
 
バプテスマを受けて、イエスさまに新たな命を与えられた私は、それまでの自分では、まるで想像もしていなかったことが、次々に起こっています。
六年ほど疎遠になっていた父と和解し、父と、とても良い関係を築くことができていること。
妹ととも口を利かないほどの関係になっていたこともありましたが、今では前以上に仲良くなっています。バプテスマを受ける前日や受けたあとしばらく、反対しつづけ、認めてくれなかった母も、今は徐々に認めてくれるようになり、教会に行く時も「行ってらっしゃい」と送りだしてくれるようになりました。

そして、私自身が日々変えられています。今まで、イエスさまを信じつつもどこかで、「イエスさまはこんなどうしようもない自分を愛してくれないんじゃないか?」と不安にかられ、「こんな私は誰からも愛されない」となげく自分がいました。人にどう思われるか不安でならないことに悩まされることも多く、孤独感がおそってくる時も、相も変わらずありました。
『父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。』
(ヨハネによる福音書16章27節)
 
神様は私を愛してくれている・・。けれども私はその愛から離れてしまっていました。そのことにすら気付いていなっかたのです。神様から離れてしまった罪を神様の一人子、イエス様は十字架にかかってつぐなってくださいました。そのことを信じることで、私は、それまでの孤独感、不安感からすべて解放されました。

神様の方が私たちを愛してくれている、何よりも、イエス様の十字架のあがないは、どの愛にもまさる、決して私たちを、見捨てず、裏切らない、最高の愛です。
今、私はゆるぎない主の愛で満たされています。そして、どのような状況下にあっても、恐れを感じることはありません。主の愛が私を支え、すべてのことからまもり、私の歩みを導いてくださっているからです。悪いできごとが起こったとしても、それは、次の良き出来事のためのステップです。聖書にしるされています。神様は、わたしたちに益になることをすべてご存知で、何よりも私たちを最善の道に導いてくださると。

   『あなたの道を主にゆだねよ。
   主に信頼せよ。
   主が成し遂げてくださる。』
                      (詩篇37篇5節)



父である神と主イエス・キリストの恵み、愛、平和があるように。アーメン。
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by oume-akebono | 2008-10-26 23:30 | 証し

K.A姉の証、原稿をお持ちでしたのでブログ用にお願いしたところ、メールにて送ってくださいましたのでこちらで分かち合わせて頂きますね。

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おはようございます。
K.Aです。24歳です。
イエス様の証をします。


イエス様は私の心の支え。
聖書の言葉は私の生きる力。

仲良しだった友達に、ちょっとした誤解で嫌われ、無視され、
「死ね」と書かれた手紙が机の中に入れられ、
うわばきにガビョウを入れるなどのいやがらせ。
誰を責めることもできず、ただ耐えて、黙し、
悲しみを内側に溜め込んだ。
誰にも何も言えない自分を唯一支えたのは祈り。
イエス様への祈り。
「イエス様、私は寂しいんです。
『イエス様の愛は大きいから、どんなことがあっても大丈夫。』
そうは言われても、悲しいもんは悲しいんです。
一人はやっぱり寂しいんです。」
何日も泣いて祈った。
ある時、思いが変わった。
イエス様はたくさんの人から嫌われ、捨てられ、悲しい思いをしたんだ。
イエス様は何も悪いことをしてないのに、十字架にかけられて、誰よりも苦しい経験をしたんだ。
イエス様は誰にも気持ちを理解されなかった。
私よりも何倍、何十倍も寂しい気持ちを知っている。
思い出したら、気持ちが変わった。
誰よりも一番私を、私の気持ちを理解できる方が、誰よりも一番近く私の傍に居てくれる。
悲しみ、苦しみ、寂しさを理解してくれる。
その思いが当時の私を救った。

友達の反応や目が気になった中学生。
ちょっと内緒話をされただけで、自分のことを悪く言ってるんじゃないかと思い込み、
底に落ちていく自分。
部活は毎日6時まで。
体も心も疲れていくばかり。
そんな時、私を支えたのはイエス様への祈り。
祈りの中で気づかされたこと。それは、
イエス様は、どんな時も共にいて、離れず、苦しい時は私をおぶって下さるということ。
イエス様の大きな愛が私の気持ちを変え、
その愛の大きさで感謝に変わり、
イエス様の大きな愛を伝えたいと思うほどにまでなる。
学校での状況が変わったわけじゃない。
自分の内側が変わった。

友達に合わせるようになった高校生。
どう話そう、どう反応しよう。
いつも駆け引き。
考えながら、必死に友達付き合いをする。
それが心苦しくて仕方がない。
でも、つまんない奴って思われたくない。
だから、頑張って笑う。頑張って話しに合わせる。頑張って、仲間になろうとする。
それが、だんだん疲れて、嫌になって、一人で涙をながすようになった高校生。
何が本当なのか、どれが本当の自分なのかわからなくなった。
そんな中でまた静かに一人で祈った日々。
気づかされたのは、イエス様だけは本当だということ。
イエス様は真実。
その言葉も生き方も。
イエス様だけは変わらない。
「だから、イエス様だけを信じよう。
たとえこの苦しみから逃れられなくても
たとえこの悲しみが消えなくても
私はイエス様を信じます」
そう決心した
私の思いは晴れになった。
動かないものがあることが支えになった。

「何のためにこんなことをするのか…」
「これは自分にとってどんな意味があるのか…」
何をするにも目的を見つけようとしていた。
目的がないなら、意味はない。
意味がないなら、無駄なこと。
だけど、目的が分からないのにやらなければならない現実に苦しくなった大学生。
そんな時、聖書から与えられた言葉が私の思いを変えた。

ローマ人への手紙11章36節
「というのは、すべてのことが、神から発し
神によって成り、神に至るからです。」

神様のために、神様の計画のために私は生かされてると気づいた時、
生きる目的が分からなくて文句を言っていた自分が
どれほど自己中心に考えて生きていたかということに気づいた。
目的に縛られていた自分に気づいた。
私の人生の目的は、神様。
神様の計画こそが私の人生の目的。
私は自由になった。
心も、魂も、霊も。
というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。
どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
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by oume-akebono | 2008-10-08 19:56 | 証し


教会では、毎週第一礼拝にて教会員による証があります。
青年会、女性会、壮年会より・・・毎週誰か一人がその時間を神様に頂くのです。
みんなそれぞれ心に示された証で、聞く私たちにとってそれは素晴らしい経験です。
今日証をしてくれたY.I兄は、原稿をお持ちでした。
ブログを見て下さる方にも是非紹介したい!というお願いに快く応じて下さったのでこちらで分かち合わせて頂きますね。Y.I兄、有難うございます!



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   証    Y.I兄


私には障害があります。
生まれ持ったものではありません。それは目には見えません。
私の障害は心の病です。

心に痛みがありながら教会に通うようになっていきました。
三年前、私には頻繁に会う友達はいませんでした。
自分と同じぐらいの年の青年と話をしたいと思い、毎週教会に通っていました。
そんな教会生活が始まって何ヶ月か経った頃、
私は一人の青年に勇気を持って自分の病気のことを思い切って話してみました。
「オレ、欝病なんだ」と。

彼は驚きもせず「ああ、そうなんだ。欝病の人教会にけっこういるよ。」と言いました。
私のほうが拍子抜けをしたのを今でも覚えています。
その青年の名前は相山喜祈君です。彼は非常に私の耐え難い話を何度も聴いてくれました。
それが夜中の電話であっても熱心に聞いて、彼は話の最後に決まってこう言います。
「有難う、話してくれて」と。
お礼を言うのはむしろ自分のほうなのに、と思っていました。不思議でした。

次第に喜祈君が求める神様に関心を持ち始めました。
一時期、10代の頃に聖書を読んでいましたが、私はただの本としか見ていなかったのだと、
それからは生きた神様の御言葉として捉えるようになっていきました。

しかし、バプテスマクラスをする中でも確信をつく出来事はありませんでした。
そんな中、青年礼拝の証の時に、自分の病気のことを話しなさい・・・と初めて聖霊様に促しを受けました。私は病気のことを他の青年に話すことを、むしろずっと隠していたいと思っていました。
しかしその時、話さなくてはならないと、思いを与えられました。
正直どう思われるか怖かったです。涙ながら話しました。
欝のこと、眠れない怖さ・・・話し終わって席についても涙は止まらなかったです。
それ以来、男女を問わず青年とより一層仲良くなりました。
その日に確信を得ました、神様はおられると。理屈ではないのだと。

今年6月に、大谷先生から「みことばの力」という本を頂きました。
その中の一節に私は目が留まりました。

「主は私の力です。私は誰を恐れましょう。
キリストが私の病を負われました。
私は主の打ち傷によって癒されました。」


その言葉を大胆に告白しなさいと書いてありました。
私は癒されているんだ、もう大丈夫なんだと。

その時真剣に思いました。信仰によって私の病は癒された、と。
これから先どんなに病気が蝕んでいこうとも、この言葉を私は告白していきます。
「キリストが私の病を負われた。私は主の打ち傷によって癒された」と言い続けます。

私の信仰はまだ幼い信仰ですが、誰でも最初は本当に小さいからし種一粒の信仰からでいいことを、あけぼの教会で教えて頂きました。
私は、私の病を負われたイエス・キリストに仕えていきます。
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by oume-akebono | 2008-09-21 16:25 | 証し