カテゴリ:週報メッセージ( 468 )

(ローマ人への手紙 6章4節)    大谷唯信牧師



「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」



「救われるためにはどうしたらよいのでしょうか」の問いにペテロは答えている。「悔い改めなさい。そして、罪の許しを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒行伝238)と。



ある人は「イエスを信じてさえいれば、何もバプテスマを受けなくてもよいのでは?信仰は形ではなく内面の問題であるから!」ともっともらしく言う。とんでもない間違いだ。バプテスマを受けることこそイエスの十字架の死にあずかり、主と共に葬られ、罪の断罪に死にさらにキリストのよみがえりと共にわたし達も罪の死からよみがえらされ新しい命に生かされる秘儀なのだ。



バプテスマをこの身に受けることは、「イエスの十字架の命を受け取りました」との信仰告白なのである。私たちは自分の合理的な納得のいく考え方を探すのではなく、御言葉の通り「キリストと共に死に、キリストと共によみがえる」を信仰の出来事として心で信じ、信仰の告白として大胆に口で宣言すべきである。何故ならこれが、神の示すやり方だからである。



私が心配なのは、バプテスマのみならずキリストの十字架の死も復活も、神の真剣な出来事がいつの間にか、教義、教理、神学等の学問的知識の言葉となり、生きた実体がすでに失せているのも気付かずに論議ばかりになっているのではということである。



実体とはキリストの十字架の死と復活の命である。命のない者が、というより、命が文字化し概念となり知識のみになっている者が、十字架の神学を叫んでも空しい。連盟の諸教会が疲弊しているのも、これと無関係ではあるまい。「ニコデモ信者」「富める青年信者」では駄目なのだ。命とは「日々新た」である。父と子と聖霊の名によって歩もう。主は世の終わりまで、私たちと共に日々おられるのである。

























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by oume-akebono | 2017-06-11 14:30 | 週報メッセージ

(使徒行伝 1:8)   大谷唯信牧師



「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、…地の果てまでわたしの証人となるであろう」




ついに弟子達の上に聖霊がくだった。イエスの死と復活の出来事も受けきれず、迷いと失望の闇の中にあった時、聖霊がくだり状況は一変した。使徒行伝2章以降の出来事を誰が予測していたであろうか。上記の御言葉を聞いた弟子達すら誰ひとり、想像もできなかったことが起きているのである。正に創世記最初の「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった」と同じではないか。さらに「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2:7)これと同じく、失望、落胆の弟子達に聖霊が注がれ「生きた教会」が誕生し、今の私達の教会があるのである。


教会のエネルギーの源泉は私達から出た努力や力ではない。上から注がれた御聖霊である。創造主なる神の人類救済の御計画は、イスラエルの歴史を通して現わされている。前745年頃、イスラエルの不信仰によっての南北の分裂、バビロニア捕囚162年間の苦しみを前にして、預言者イザヤの言葉を見てみよう。


「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊を生かし、砕けたる者の心を生かす。わたしは限りなく争わない。また絶えず怒らない。霊は私から出、いのちの息はわたしがつくったからだ。」
「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、また彼を導き、慰めをもって彼に報い、悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。遠い者にも、近い者にも平安あれ、わたしは彼をいやそう』 」(イザヤ57:15-19)


この預言の成就が究極の神の愛、独り子イエスの贖いの十字架であり、聖霊の注ぎによる教会の誕生、そして私達への救いの招きなのである。






















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by oume-akebono | 2017-06-08 22:04 | 週報メッセージ

(ペテロの第一の手紙 5:8-9)  大谷唯信牧師

・・・「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。」・・・




悪魔の働きは巧妙で、私達を常に主の働きから引き離し、「肉の働き」(ガラテヤ人への手紙5:19-21)に巻き込もうとする。私達が霊の命に目覚め、さらなる成長に向かわんとするほど活発に動き出すのだ。もっともらしい理由のもとに互いに争いを起こさせ、ねたみや党派心を引き起こし分裂に導く。それだけではなく、霊的な事柄においても競争させ較べ、奉仕や捧げ物をするその中にも肉の思いを密かに起こさせるのである。さらに教会の一致、福音宣教を願うその中にも、理解や方法の違いで争いを起こさせる。


何と多くの教会や信徒、さらに神学校までがその手に乗せられてきたことか。サタンは決して姿を現さない。自分の存在を認めさせないためである。彼にとっては、その方が働きやすいのだ。今や教会でも神学校でも悪魔の存在すら聞かれなくなったではないか。


キリストの十字架の力を一番知って恐れているのは悪魔である。十字架の言には勝てないのだ。それ故、彼は福音を単なる知識としての神学、教義学の文字に替え、福音伝道を福祉活動、政治活動に置き換えようとしている。


昔のイスラエルの民と同じ道を辿っているではないか。パウロはイエスの光に照らされ、大変な間違いに気づかされた。即ち、「イスラエルは律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。」(ローマ人への手紙9:31)。「彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったから」(ローマ人への手紙10:2-3)と。


結局はエゴの内だ。歴史は繰り返される。現在もアダムの如く知識の実だけを求め、情報こそ力と信じている。「世に勝つものはだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。(ヨハネの第一の手紙5:5)主よ、リバイバルを与え給え。























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by oume-akebono | 2017-05-28 21:38 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙4:15)   大谷唯信牧師


「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」



これは私達の教会に与えられている神からの成長の約束である。勿論、成長させて下さるのは神御自身であるが、同時に私達への注意が語られている。それは「私達はもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪だくみによって起こる様々な教えの風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく」と言うのである。


この世は肉が支配しているため、教会の内も外も常に悪の霊に攻められていることを覚えよう。決して油断してはならないのだ。悪魔は有能で熱心な人を利用し、その熱心と良き働きから不平不満を起させ問題に発展させるから油断大敵なのだ。私達の教会はこれから主にあって必ず成長する。となると、今いる私達が基礎になるわけではないか。


どこの教会を見ても最初の基礎となった人たちの信仰の有り方はその後の教会に良くも悪くも大きな影響を与えている。それだけに私達は心してキリストを土台とし、キリストを中心とした信仰生活をおくる必要がある。この世で健全な信仰を保つには教会なしではあり得ない。教会にしっかりつながり、教会での交わりの中で教会を建て上げる。働き手になって行く程に神の祝福が流れ込むのである。


「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」(ヨハネ15:5)「御霊の実」なのだ。礼拝、みことば、祈りを生活から奪われないようにしよう。共に神に祝福され成長する日々を選ぼうではないか。
















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by oume-akebono | 2017-05-21 22:26 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 6章33~34節)       大谷唯信牧師



「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」



クリスチャンは誰でも、一日一日を信仰の確信の中で生きるべきであります。神は独り子イエスさまを通しすべての罪を贖い、これを信じた者をその信仰によって、神の子として下さったからです。



「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)とイエスさまは約束して下さいました。あなたはこれを信じていますか。



神は御自分のご計画をイエス様に託され、イエス様は教会に託され、私たちが教会とされ神の恵みをすべて受け取れるようにして下さったのです。これが神の人類救済のやり方なのです。



「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼす」とまで言われているのです。「なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだから」(Ⅰコリント3:16-17)これほど神の私たち全人類の救いに対する情熱は激しく燃えているのです。「独り子を給うほどに世を愛して下さった」と言うことの中にも、その激しさを見ることが出来ます。



それなのに私達が確信のない信仰で生きているとしたらどうでしょうか。パウロは死に物狂いになりました。


確信に満ちた生活をするには

① 常にまず自分の内側を整える。それは信  仰生活を整えることから始まります。

② 教会を信じ、礼拝、祈祷会、献金を聖別するところから点検しましょう。これが「まず神の国と神の義を求めよ」につながってきます。



私達は第一のものを第一としているでしょうか。信仰が「自分なり」の自分の都合ではなく主に従う、それは信仰による良心に従うことであります。肉に流されてはいませんか。サタンの罠に気をつけ自分を聖別し主に献げましょう。















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by oume-akebono | 2017-05-14 13:46 | 週報メッセージ

(ヘブル人への手紙 9章14節)    大谷唯信牧師



「永遠の聖霊によって、御自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたし達の良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」



新年度を迎え、ゴールデンウィークもそれぞれに楽しく思い思いに過ごされたことでしょう。私達はここで信仰を新たにし、主の言われたようにこの世の闇を照らす光となって「世の光」「地の塩」としての働きを使命として立とうではありませんか。



「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(コリント人への第一の手紙 6:19-20)



そのためにはまず、私達自身が聖霊の器として整えられなければなりません。何故ならわたし達は信仰によって救いに入れられているのに「わたしは駄目、不信仰だから…、まだまだ弱いから…」等々の思いが出てくるのではないでしょうか。



今や日本の大半の人々が何らかの「心の病」にかかっています。それは小学生上級位から始まり、中・高・大学生、さらに社会人となった青年達まで、正に現代の国民病です。



それは不真面目な人がなるのではなく、まともなごく真面目な、正直な向上心を持った人ほど傷つきやすく、こわれやすく閉じこもる傾向となり、本来の力が発揮できなく不完全燃焼になってしまうのです。



その原因はまわりの環境ではなく自分自身の内にある良心の声に従わず怠け逃げ回っている罪を良心に責められその重圧に押しつぶされている現実と向き合わず逃げている事です。



信仰を持ってもその古い思考パターンを続けていると同じです。良心をキリストの血ですすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、真心をもって信仰の確信に満たされ主の前に立つ事から始めましょう。















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by oume-akebono | 2017-05-07 14:32 | 週報メッセージ

(ヘブル人への手紙 9章14節)    大谷唯信牧師



「永遠の聖霊によって、御自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたし達の良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」



人は猿の進化したものではなく神によって創造されました。聖書には「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記127)「神は土のちりで人を造り、命の息(神を認識する霊)をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者(魂、心)となった」(創世記27)とあります。即ち、人は肉的存在のみではなく特別に神と同じく霊的存在として造られました。人の霊には神を認識する霊、神を礼拝し交わりを持つ魂、善悪を判断する良心の三つの部分が神の愛に根ざした知・情・意をもつ豊かな人格的、精神的存在として造られたのです。



しかし、サタンの巧妙な誘惑に負けこれに従い神との断絶を招き、以来、人は魂の渇ける者となったのです。人はこれを悔い改めることなく神の責任として居直り神中心の生き方から自己中心の生き方で今に至っています。当然心には自分を超えた大いなる存在を求める宗教心は残っていますが、そこに自分を入れたり、自分なりの都合のよいものを神として崇め生活しています。自分の都合で自由に生きる事こそサタンの巧妙な罠ですが人は気付きません。自己の欲望を満たすため自由奔放、勝手気儘に生きることを喜びと感ずるのがエゴの特徴です。



霊は神に対して死んだ状態ですが良心は生きています。ところが良心は裁判官のように罪定めをする機能です。真面目で純粋な人ほど良心に責められ、逃げ場がなく、その呵責に耐えかねて神経が参ってしまい心が病んでしまう人も多いようです。これこそイエスさまの十字架に委ねるのです。「わたし達はイエスの血によってはばかる事なく聖所に入る事ができる。心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、真心をもって信仰の確信に満たされつつ、み前に近づこう」(ヘブル1022)イエス様はこのために来られました。
















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by oume-akebono | 2017-04-30 15:37 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 9章14~29節)    大谷唯信牧師



「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」



私達の内面は信仰と不信仰が絶えずぶつかり合っています。普段は信じているはずの信仰も思わぬ出来事にぶつかるとその現実の前に信仰は消えかかってしまう事があります。



今年度は非常時にあっても信仰に立つ、これにチャレンジいたしましょう。



この父親はてんかんに苦しむ息子を弟子のもとへ連れてきましたが治りませんでした。そのことを父親から聞いたイエス様は「ああ、なんという不信仰な時代であろう。」と嘆かれたのです。父親は無我夢中でイエス様にすがり「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」即座に主は「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」父親は叫んで「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。イエス様は父親の心をえぐるように迫り不信仰を信仰に導かれたのです。彼のよかったのは不信仰ながらもイエス様にしがみついた事でした。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」(ヨハネ15:4



 からし種一粒の信仰でも主は取り上げて下さるのです。この父親には何が足りなかったのでしょう。それは「救いの確信」でした。わたし達も「何となくの信仰」は持っています。普段はこれで何とか間に合っています。しかし突風が来ると落ち葉が吹き飛ばされるように散らされてしまう事はないでしょうか。



 ここで大切な事は持っている信仰の上にさらに「確信」を持ってしっかり押さえ込む事です。確信も信仰も上から与えられるものとして、ただ待っている事はないでしょうか。主は「その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら」(マルコ11:23)と言われました。これこそ信仰に確信を加え不動のものにすることです。どうすればそうなるのでしょう。イエス様は「祈りによらなければ」(マルコ9:29)と言われました。実に祈りと信仰は一対なのです。



















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by oume-akebono | 2017-04-23 12:56 | 週報メッセージ

(ルカによる福音書 24章 5~6節)   大谷唯信牧師



「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。・・・」



イエス様はわたし達の罪を背負い、十字架の苦しみと死のすべてを受けられ、墓に葬られたのでした。エルサレム中の大事件となり、多くの人々が見ていたのです。そして、三日目によみがえられました。ところが弟子達はこのよみがえりを信じなかったのです。どうしても信じられなかったのです。どうしてでしょうか。



それは自分の知識、経験、常識的な考え方ではあり得ないことだったからです。彼らは以前からこのことを聞いておりました。主は、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべき事を弟子達に示された」。するとペテロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことはあるはずがございません。」と言ったのです。イエス様の地上に来られた目的は全人類の救いのために死に、よみがえり、罪とサタンを打ち破るためでした。



いよいよその肝心な時にペテロはその行く手に立ちはだかったのです。ペテロはイエス様を愛していたからです。そんなひどい目に合うなんてとんでもないと、必死に止めたのです。しかしイエス様に「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をするものだ。あなたは神の事を思わないで、人の事を思っている。」(マタイによる福音書1621-23)と言われてしまったのです。どうしてこんなに食い違ってしまうのでしょう。ペテロは何とかしてイエス様を励まし、力になりたかったのです。



これはわたし達にとっても大切なことです。ペテロもわたし達も、地上からの者です。イエス様は上からの方です。地上の肉の者がどんなに力を尽くしても上からの霊の世界は理解できません。結局は冒頭の御言葉、「生きた方を死人の中にたずねてしまっている」のです。知識の限界です。この世の事は、知識で理解できるでしょう。しかし、霊の世界に対しては、信ずる信仰で受け止め従った時にのみ、わたし達の霊の目が開かれるのです。

























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by oume-akebono | 2017-04-16 12:37 | 週報メッセージ

(ペテロの第一の手紙 3章8-9節)       大谷唯信牧師



「あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」



新年度を迎え、皆様も新しい目標、課題、思いもしなかった問題等々を目の前にし新たな思いで取組まれている事でしょう。近頃世界はトップ指導者の愚かな言動で不安を撒き散らし結局は武力による均衡でのかろうじての平和維持で、昔ながらのこの低次元のワンパターンを脱却できず、人間の弱さを見る思いです。「実に被造物全体が、今に至るまで共にうめき共に産みの苦しみを続けている」(ロマ8:22)のです。わたし達の生活でもこの世はサタンの支配にあり肉の働きの強い支配が迫って来るのが現実ですから「御霊の最初の実を持っているわたし達自身も、心の内でうめきながら、からだのあがなわれることを待ち望んでいるのです」(ロマ8:23)



しかし私達クリスチャンは「御霊もまた同じように、弱いわたし達を助けて下さり、どう祈ったらよいかわからなくても、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもってわたし達のためにとりなして下さる」(ロマ8:26)のです。しかも「神は、神を愛する者たち、即ち、御計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益として下さる」(ロマ8:28)のですから感謝です。



イエスさまは「人が生きるのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)と語っています。



冒頭の御言葉はあの弱かったペテロが聖霊に変えられて語っているのです。わたし達はこういうペテロを見て励まされます。彼はどのようにして変えられたのでしょうか。彼の生涯を学んで下さい。彼は主に従いながら変えられました。今は教会がキリストです。冒頭の御言葉を実践し自分の生き方、有り方をチェックしキリストと共に死に共によみがえる信仰を自分の中に確立していく目標で歩みましょう。























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by oume-akebono | 2017-04-09 13:49 | 週報メッセージ