カテゴリ:週報メッセージ( 476 )

(箴言 3章5-6節)        大谷唯信牧師



「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、
主はあなたの道をまっすぐにされる。」



またまたアメリカの大統領は北朝鮮に対し、互いに相手を非難し、この時代に武力で牽制し、火の海にしてやるとの野次を飛ばす幼稚な行動で世界を騒がせ、自らの愚かさを得意気に現している。人間としての力以上の権限、地位、富を得たりすると人間は崩れると言われるが、その見本のようなものだ。


こういうときこそ日本は同盟国、おともだち等と言うなら、もっと毅然として世界人類の平和のために両者の中に飛び込み、教え、悟らせ、心に訴え、両者に責任と感動を与えるような態度や言葉一つもないのだろうか。被爆国の日本だからこそ出来ること、しなければならないことがある筈である。その立場にいる指導者達は、日本がこの歴史の現実から世界のために与えられている日本の立場、責任、使命の重さを感じているのだろうか。世界の人々の悲しみの声、世界の人々の平和への道筋を見ようとしているのか、否である。それぞれが個人主義に陥り自分の立場、自分の主義、自分の党派、自分の成功、栄誉…自分を守るために汲々としており、浮き足立ち、足が地に着いていないのではないか。



「少年(青年)よ、大志を抱け!」は有名な言葉だ。北大の前身、札幌農学校の宣教師の言葉である。「大きな志を持って」であるが、本来の言葉は「キリストにあって」、「キリストによって」の言葉が入っていたと言われている。キリストなしの大志では単なる野望になり、個人主義のエゴを脱するどころか拡大するからだ。エゴは世界に野火のようにすでに拡がっている。クラーク師はキリストを伝えたのだ。後の人はこれを消した。これが世の常である。今やエゴの炎が全世界に拡がっている。第1のものを捨てたからだ。冒頭の御言葉も捨ててはいけない第1のものを示しているのだが、どうであろう。第1のものとはキリストである。知識の木といのちの木は、常に目の前にあるのだ。






















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by oume-akebono | 2017-08-13 14:22 | 週報メッセージ

8月6日 成長する教会

(エペソ人への手紙 4章15-16節)      大谷唯信牧師



「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである」



健康的に成長しているキリストの教会の姿がここにある。もし、キリストにつながっているなら必ず実を豊かに結ぶのが教会である。同時に「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」と自然の命の営みを通して教会の霊的成長の命の原則を示している。生命は教理でも哲学でもなく教訓や教えでもない。教会の生ける命はキリストの御霊以外にはない。御霊によって歩んでいる教会はどのような状況にあっても豊かに成長する。私達はそう固く信じている。何故なら使徒行伝にある初代教会の歩みを見るがいい。あのペテロやパウロがどのようにして変えられたのか。思いを馳せる時今でも新しく多くの学び、発見、励まし、慰めを受ける。



聖書中の人物からは不思議に思えるほどに新しく教えられ、実に新鮮なのである。



共通している事が一つある。それは、皆、主に出会っている事だ。わたしも主に出会った。50年以上も前になる。以来、命の泉が内から湧き支えられている。自分自身を見ると不忠実そのもので勿体なく恥ずかしいのであるが、今やそう言うものを超えて、実に私達の教会が新しい霊の風に吹かれて主の働きを受けている動きが見え涙が止まらなくなった…どうした事だろう。教会の方々のいろいろな思い、喜び、悲しみ、祈りが霊に迫ってくる…どうしたらよいのだろう。」



「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5-6)


「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まる所にはわたしもその中にいる」(マタイ15:20)


全くその通りであった。先週のC.S.キャンプの主題聖句だった。「主と出会う」これを確かなものにしようではないか。




















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by oume-akebono | 2017-08-06 14:06 | 週報メッセージ

(箴言 3章5-6節)         大谷唯信牧師



「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。

全ての道に主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。」



信仰生活は宇宙ロケットに似ている。宇宙の軌道に乗るまでは、大きな燃料タンクをいっぱいにして昇って行くが、軌道に乗れば身軽になって宇宙の軌道の流れに乗り、管制室の誘導によって前進する。交信が途絶えれば、宇宙の藻屑にもなりかねない。



信仰生活でも求道中はまだ自力で燃料を燃やし、何とか頑張る。これはまだこの世で生きる普通の人の歩み方である。当然、この世の知識、技術等々に頼ってしまうのだが、肝心な生ける命となる燃料の確保、道を間違わないように、御言葉に向かうが一時もハンドルから手を離せない。自分の力に頼るからである。信仰は自分に絶望したところから始まる。絶望の中で主を仰ぎ、絶望の自分を主に投げ捨てるのだ。その時、神の軌道に乗っていることがわかる。



イエスは「思いわずらうな、天の父はあなた方の必要をことごとくご存知である。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるだろう」(マタイによる福音書633)と約束しておられる事も心に見えてくる。



冒頭の御言葉でもわかるように、私たちがすることと、神が私たちにしてくださることとを明確に見定める必要があろう。「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ」。これは私たちがすることである。教訓では昔のイスラエル人の失敗と同じく、律法主義になってしまう。私たちは御言葉一つ一つに取り組むのも「イエスの御名によって」の信仰で、「主を呼び求め、イエス様との出来事」として取り組むのである。



また自分の単独の出来事ではなく、キリストの体なる「私たち教会の出来事」として取り組むなら、祝福と霊的成長はさらに大きくなる。「生ける信仰は望んでいる事柄を確信し」とある。心をつくして主を信頼し、確信に至るまで主に呼ばわり、祈り信じて歩むのである。

























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by oume-akebono | 2017-07-30 15:03 | 週報メッセージ

(ヘブル人への手紙 3章7-8節)          大谷唯信牧師



「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、

荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」



私達の日々の信仰生活は荒野におけるイスラエルの民の歩みと、その課題は同じとも言えよう。だからこそ神は独り子イエスの十字架の死と復活によってすべての悪と死に勝利し、私達全人類の救いとなって下さった。二千年前の十字架の出来事はその場その場の出来事に留まらず神の霊的世界では驚く事にこの世の私達の過去から永遠の未来すべてを包み込み、常に「永遠の今」の出来事として今の私達に救いの道を開き、すでに完成して下さっておられるのだ。



私達の現実のこの社会には善悪こもごもいろいろあるがすべてに神からの意味があり一つ一つの日常の出来事の中に神の救いと導きが確実に示されている。それを解き明かし示しておられるのが聖書である。すべての出来事に神の意味があり神との出会いがある事がわかるのだ。



故に聖書は「今は恵みの時、救いの日である」(Ⅱコリ6:2)と語る。聖書は救いを示した神からの啓示の書だ。神はこの聖書を私達教会に与えられた。私達を神からの福音の証人にするためである。神は御自身の人への熱烈な愛を聖書に語っておられる。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)神の私達への切実な思いである。神の命がけの救いの福音を私達教会は託されたのである。「わたしがあなたがたを選んだ」と語られる。



「心をかたくなにしてはいけない」。これは私達が一番落ち入りやすい不信仰からの罪だからだ。何故すぐに不信仰になるのだろう。「信仰は望んでいる事柄を確信し・・・」(ヘブル111)とあるが、望んでいる願い事で終わっているからだ。望んだならそれに「確信」と言う確固とした決断でしっかり押さえ込むのだ。信仰は願いを確信で釘付けにする。確信とはもう疑わないと言う信仰宣言だ。そこに御聖霊が働き、御霊の実となってくださるのである。


























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by oume-akebono | 2017-07-23 15:57 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1章26-27節)     大谷唯信牧師



「あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。神は知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び・・・無きに等しい者を、あえて選ばれた」



信仰生活で一番注意しなければならない事がある。それは惰性である。必死に戦っている時には起こらない。慣れてきた時、順調になっている時、安心している時である。しかも本人は気付かないのが特徴であるから困るのだ。気づいた時には遅い。



「あなたはなまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」(黙示録3:16)とキリストがラオデキヤの教会に語っている。エペソの教会には「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこであなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい」と言われている。



マンネリは必ず来る。では、そういう時わたし達はどうしたらよいのだろうか。キリストは語られている、「あなたは自分では富んでいる、豊かになった、何の不自由もないもないと言っているが、実はあなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない・・・・・・すべてわたしの愛している者を、わたしは叱ったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である。」(Ⅰコリント118)との有名な御言葉がある。本当に御言葉が神の力になっているだろうか。滅び行く者と同じく愚かとは言わないまでも、単なるクリスチャン言葉であり、心に何の喜びも影響も与えない死んだ文字になってはいないだろうか。「十字架」と思うだけで「我が罪のためなり」と胸熱く思う心は今あるのか!慣れは命を奪うのだ。



 日々の御言葉を通しての祈りと悔い改めによる主との交わりこそが心を開く。

 「油断することなく、あなたの心を守れ」(箴言4:23)と主は語られる。

















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by oume-akebono | 2017-07-16 14:41 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 2:19-20) 大谷唯信牧師



「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、 わたしのうちに生きておられるのである。」



パウロは徹底して神の前に自分の罪と向き合い、取り組み、自分を支配し主張し自分を守ろうとするエゴの殻を粉々に砕き、それを投げ捨てた。あの誇り高い彼が空っぽになって十字架のイエスに身を投げ出しているのである。



霊的成長がなく、また求めることもない信仰生活は、すでに死にかかっていると言える。これは普通自覚がないのが特徴だが、逆に自覚し取り組めば、凄い成長にもつながるチャンスとも言えよう。要は肉を取り除き、御霊に満たされるための霊的作業が必要なのだが、本人が気付かない場合が多い。「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」(黙示録317



ペテロは、自分の中に死に値する程の罪にとりこにされている現実を見、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。(ローマ724)と罪のどん底で主を見上げたその瞬間「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな!」(ローマ725)と歓喜の叫びを上げる者とされたのである。ダビデも「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなた()がわたしと共におられるからです。」(234)と語っている。この死の陰の谷が深いほど喜びと確信は大きく確かなものとされる。



 この信仰は御霊の実を与えて下さる。肉の働き(ガラテヤ519-)は御霊の実に変えられ、豊かな実となって私達を導いて下さる。心の砕かれた者への恵みであり、肉のように自分の働きではない。上からの即ちブドウの幹につながっている者への賜物であり信仰の賜物である。たとえ死の陰の谷となっても、つぶやき、疑い、不平、不満ではなく九つの御霊の実が与えられる。


















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by oume-akebono | 2017-07-09 13:49 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 11章24節)  大谷唯信牧師



「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」



これはキリスト者に与えられている信仰による恵みの法則だ。私達の教会もさらに躍進し成長する時期に来ていると思う。



さて計画を進めるに当って一般的に考えられているのが①現状把握、②目標設定と計画、③実行、④進行状況のチェック、⑤改善計画と実施、等々がある。しかしここで見られる多くの問題点はすでに②で起きてしまう。熱心に全体で統一し行おうとする程、いろいろ抵抗が出て来てギスギスしてくるのである。目標が大きく緻密な計画になるほど抵抗は大きくなる。結局、会社命令等の力で圧していかざるを得なくなるのが現状だ。



何故そうなるのだろう。それは目標に取り組むほどに「あなたはそうなってはいない!」と言うメッセージにぶつかるのである。目標は手の届かない山の上に遠のいてしまうのだ。一部の人が頑張り、あとの多くは傍観者にならざるを得なくなる法則なのだ。



イエスの言われたのはもう一つの法則である。それは信仰の法則である。企業で実験するのは難しいが、教会では実験的に取り組む価値はあると思う。それはこの世の肉の法則ではなく信仰による霊(命)の法則である。即ち、目標を願い祈ったならば信仰によってすでにかなえられていると信じた地点からの出発とする。肉による目標は近づいているようではあるが溝が深く問題点ばかりで引き離されている場合が多いのだ。



ところが信ずる信仰によって「なんでも祈り求める事はすでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」との御言葉に取り組んでみると一人ひとりが思いを超えた前向きの力の法則に触れる事になるのである。問題を見るのではなく主の御業を見る事が出来る。否定的な思いが逆境になるほど強力な力と信仰による宣言―「私達は大丈夫!」の力に触れるのである。イエスに触れるからだ。すでに私達はこの道を歩み出している事を知ろう。






















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by oume-akebono | 2017-07-02 22:42 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 8章12節)      大谷唯信牧師



「わたし達は、果たすべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を負っているのではない」



 私達はクリスチャンになってもその信仰生活を肉の力で押し進めている事が多いのではなかろうか。信仰は霊的な出来事である。それなのに肉の力で維持するとなるとどうであろう。自分の調子の良い時、気分が乗った時には快調でどんな奉仕でも生き生きと楽しく出来る。労する事そのものが楽しく感謝である。自分が肉の力でやっている等とは到底思えない。しかし自分の限度を超えて来ると肉の部分が不満、つぶやきの思いが出て来るのだ。その奉仕、働きが、又、日常生活等もいつの間にか肉の働きに変っていってしまう。熱心であっても真面目であっても同じである。肉とは自己中心の自我の心である。油断するとクリスチャンのベテランの方でもなるから気をつけねばならない。



 パウロは「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たす事はない」(ガラ5:16)と述べた。しかしそのような思いで取り組んでも、思うようにはいかないと秘かに悩んでいる方もおられると思う。



 どうすればよいのだろう。

一つ言える事は基本的な事であるが、「イェスの名」によって取り組む事である。祈りも奉仕も新ためて意識して「イェスの名」によってするのだ。イェスの名によってしなければすべては無効なのである。



 「わたしの名によって願う事は何でもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。(ヨハネ14:13)


 「この人による以外に救いはない。私達を救いうる名はこれを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである」(使徒4:12)


 「信じない者はすでに裁かれている。神のひとり子の名を信じないからである」(ヨハネ3:18)。神の御子の名はイェスであり本来父の名であった。

その名を御子に与え権威を授けられたのである。(ヨハネ17:11-12)。故にすべての事を「イェスの名によって」取り組むべきなのである。





















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by oume-akebono | 2017-06-25 15:45 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 6章4節)    大谷唯信牧師



「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」



「救われるためにはどうしたらよいのでしょうか」の問いにペテロは答えている。「悔い改めなさい。そして、罪の許しを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒行伝238)と。



ある人は「イエスを信じてさえいれば、何もバプテスマを受けなくてもよいのでは?信仰は形ではなく内面の問題であるから!」ともっともらしく言う。とんでもない間違いだ。バプテスマを受けることこそイエスの十字架の死にあずかり、主と共に葬られ、罪の断罪に死にさらにキリストのよみがえりと共にわたし達も罪の死からよみがえらされ新しい命に生かされる秘儀なのだ。



バプテスマをこの身に受けることは、「イエスの十字架の命を受け取りました」との信仰告白なのである。私たちは自分の合理的な納得のいく考え方を探すのではなく、御言葉の通り「キリストと共に死に、キリストと共によみがえる」を信仰の出来事として心で信じ、信仰の告白として大胆に口で宣言すべきである。何故ならこれが、神の示すやり方だからである。



私が心配なのは、バプテスマのみならずキリストの十字架の死も復活も、神の真剣な出来事がいつの間にか、教義、教理、神学等の学問的知識の言葉となり、生きた実体がすでに失せているのも気付かずに論議ばかりになっているのではということである。



実体とはキリストの十字架の死と復活の命である。命のない者が、というより、命が文字化し概念となり知識のみになっている者が、十字架の神学を叫んでも空しい。連盟の諸教会が疲弊しているのも、これと無関係ではあるまい。「ニコデモ信者」「富める青年信者」では駄目なのだ。命とは「日々新た」である。父と子と聖霊の名によって歩もう。主は世の終わりまで、私たちと共に日々おられるのである。

























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by oume-akebono | 2017-06-11 14:30 | 週報メッセージ

(使徒行伝 1:8)   大谷唯信牧師



「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、…地の果てまでわたしの証人となるであろう」




ついに弟子達の上に聖霊がくだった。イエスの死と復活の出来事も受けきれず、迷いと失望の闇の中にあった時、聖霊がくだり状況は一変した。使徒行伝2章以降の出来事を誰が予測していたであろうか。上記の御言葉を聞いた弟子達すら誰ひとり、想像もできなかったことが起きているのである。正に創世記最初の「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった」と同じではないか。さらに「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2:7)これと同じく、失望、落胆の弟子達に聖霊が注がれ「生きた教会」が誕生し、今の私達の教会があるのである。


教会のエネルギーの源泉は私達から出た努力や力ではない。上から注がれた御聖霊である。創造主なる神の人類救済の御計画は、イスラエルの歴史を通して現わされている。前745年頃、イスラエルの不信仰によっての南北の分裂、バビロニア捕囚162年間の苦しみを前にして、預言者イザヤの言葉を見てみよう。


「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊を生かし、砕けたる者の心を生かす。わたしは限りなく争わない。また絶えず怒らない。霊は私から出、いのちの息はわたしがつくったからだ。」
「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし、また彼を導き、慰めをもって彼に報い、悲しめる者のために、くちびるの実を造ろう。遠い者にも、近い者にも平安あれ、わたしは彼をいやそう』 」(イザヤ57:15-19)


この預言の成就が究極の神の愛、独り子イエスの贖いの十字架であり、聖霊の注ぎによる教会の誕生、そして私達への救いの招きなのである。






















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by oume-akebono | 2017-06-08 22:04 | 週報メッセージ