カテゴリ:週報メッセージ( 484 )

(ペテロの第二の手紙 3章18節)        大谷唯信牧師



「わたし達の主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」



私達は神の恵みと知識によって生かされ成長する。神の恵み、神の知識とは何か。パウロは語る、「十字架の言は滅びる者には愚かであるが、救いにあずかる私達には、神の力である。この世は自分の知恵では神を認めるには至らなかった。それは神の知恵にかなっている。そこで神は宣教の愚かさで信じる者を救うこととされたのである。それは十字架につけられたキリストである。」(Ⅰコリ1:18)それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。



「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおして来たのである。」(ヨハネ1:17)

旧約では人は常に失敗であった。律法はあっても守る力がなかったからだ。真理(律法)は罪を裁くだけであったからである。



しかし、神はひとり子なる真理によって罪を指し示し、同時にめぐみによって罪を贖い勝利を与えてくださった。これを信じる信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力であると聖書は語る。「世に勝つ者は誰か、イエスを神の子と信ずる者ではないか。」(Ⅰヨハネ5:5)



では、実際にこの恵みを受けるにはどうしたらよいのか。まず御言葉によって自分の罪を一つずつ明確にとらえ、自分の罪として認めることである。「思いわずらうな」と御言葉が言う、自分は思いわずらっている。それは罪である。御言葉は「許しなさい」とある。しかし許せない。これは自分の罪である。はっきりと自分の罪であることを認めよ。これが大切なのだ。孤独で寂しく悩んでいる。主は「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と言われている。これも自分の罪である。



主イエスは罪を贖うために来られたのだ。「主よ、この罪を贖ってください」とはっきり祈り、主の十字架に委ねるのだ。御聖霊はあなたを助け、孤独感も不安も消え平安に変わるのである。恵みとは、自分に替わり主がなさってくださる事である。





























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by oume-akebono | 2017-10-01 15:59 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 12章2節)    大谷唯信牧師



「…心を新たにすることによって、造りかえられ、…」



どのような素晴らしい信仰を得ていても、日々新たに造りかえられることを失ったならば、その信仰は観念だけとなり、死んだものとなる。そこには命も力もない。たとえ深い人生観を語り、学識に富んだ言葉であっても「やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである」(コリント人への第一の手紙131)。魂を救う力はない。ということは、ベテランのクリスチャンであっても、説教者であっても、失格者になり得るわけだ。



この世の肉の事であるなら、誰にでも目で見え、手で触れることができるので分かりやすい。しかし、霊の事は霊の心が開かれていなければ、見えないのである。勿論、霊の命を持っている者には、相手が霊の命を持っているか否かはすぐに分かる。荒野のヨハネが群衆の中に居られるイエスを見て、一瞬にして「見よ、神の小羊」と叫んだのに対し、学者やパリサイ人達には、イエスの中に霊なる神の命が見えなかったのだ。



そういう者たちが指導者になっていたから、イエスは「盲人が盲人の手引きをする」(マタイによる福音書1514)と言われたのである。内面の問題は実に観念的になりやすい。神学で塗り固める余り、本来の自分の命が消えていることに気付かない。奉仕や活動でも同じことが起こる。



勿論、神学も奉仕も必要なのだ。なくてはならない大切なものである。だが、これらは永遠の命を得るための手段でしかない。ではこの手段を通して何を得るのか。目の前におられる生ける主と出会い、永遠の命をいただき、復活の主と出会った者として、ペテロ達のように「主の証人」として立ち上がることである。



ペテロ達は神学や律法を論じたのではない。人々は彼らを見て「大胆な話しぶりを見、同時に二人が無学なただの人達である事を知って不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者である事を認め…」(使徒行伝413)と聖書は伝えている。彼らは論じたのではない。「イエスの名によって立ちて歩め!」と主を証したのだ。これこそ、日々聖霊によって新たにされている教会の姿なのだ。






























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by oume-akebono | 2017-09-24 17:55 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 13章23節)           大谷唯信牧師



「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」



教会の成長と私達の成長は一つである。これを受けるには私達が日々に祈りの中で御言葉を信じ実践し生活の中で味わい、「この御言葉は本当だ」と確信を持って言い切れるようになる事だ。それは自分の小さな考えや、サタンの巧妙さに陥らないためである。サタンの目的は一つ、私達をキリストから、教会から離れさせ信仰を失わせる事だ。



御言には私達を新しく造り変える力がある。自分の心の奥に御言を落とし込もう。自分の思いの中では常に霊と肉とが戦っている。サタンは肉に語りかけ肉の欲する方へ導く。肉の語りかけはわかりやすい。生まれながらの肉の五感で理解できるからである。自分の欲望、興味にストレートにつながっている。しかも肉は「目には目を、歯には歯を」と肉特有の報復の世界となる。肉では平和は造れない。



御言は語る、「肉の働きは敵意、争い、そねみ、怒りのたぐい」(ガラ5:20)と。今の世界情勢が正にこれである。互いに正義、平和を求めながら口汚くののしり合っている。日本もこれに加わっているのだから情けない。「気をつけるがよい。もし互いにかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互いに滅ぼされてしまうだろう」(ガラ5:15)と警告しておられる。これらの国の指導者はここで戦争が起きてしまったら世界に対して本当に責任が取れるのだろうか。本当に相手国に対して本気で謙虚に向き合っているのだろうか。全くそのようには見えない。自分の権勢を誇り相手を馬鹿にして…。しかし、これが私達の高慢な姿の本音である。何千年たっても肉は変わらないのだ。変えられないのである。



肉は肉、滅びしかない。 … どうしたらよいのだろう。御言に生きるのだ。御言には御霊が働いておられる。御霊によって歩くとは御言を信じ神の臨在を信じ、従う。平安はここから来るのだ。


















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by oume-akebono | 2017-09-17 14:49 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2章12節)   大谷唯信牧師



「あなたがたはバプテスマを受けて彼(キリスト)と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」



バプテスマはキリストを信じる信仰の出来事として見るならば、単なるセレモニー以上のものである。神が天地を創造した奇跡に匹敵するほどの大きな出来事なのだ。「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3:11)。即ち、天地を創造したと同時に人の心に永遠の天地を包み込む広大無変な思いを与えられたのである。「思う思い」とは永遠を思う「信仰」のことである。



人の心は汚れに汚れ目先のこと、自分の手で触れたものしか見えなくなってしまっている。何と小さく疑い深く狭い存在になっている事か。自分の小さな世界で独りぼっちのお山の大将である。本音は自信もなく寂しいものである。意味のない虚勢に生きているだけだ。だから「目を覚ませ」と聖書は語りかける。「愚かな者は心のうちに『神はいない』と言う」(詩篇53:1)何故か?「清くならなければ、誰も主を見ることはできない。すべての人と相和し、自ら清くなるように努めなさい」(へブル12:14)「心の清い人たちは神を見るであろう」(マタイ5:8)と聖書は語っているのである。



バプテスマを受けるという行動はイエスを救い主として信じる自分の信仰告白なのである。「心で信じて義とされ、口で告白して救われる」(ロマ10:10)つまり信じた事を口で告白し公にする、宣言する、この行動が伴う事が大切なのである。



バプテスマは肉から霊への新しい命の誕生であり新しい出発である。だからと言って急に完全になるのではない。神の子とされ永遠の命の世界に誕生したのだが霊的には赤ちゃんである。教会の交わりの中で成長し主の器、証し人として成長するのである。同時にサタンの働きは激しくなるので甘く見てはいけない。狙いは一つ、それは私達をイエスと教会から引き離す事だ。暖かく正しい論理で迫るから気をつけよう。





















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by oume-akebono | 2017-09-10 13:45 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章16節)  大谷唯信牧師



「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」



現代はいよいよ御霊によって生きる事が現実的な課題となって来た。人間は誰でも基本的には肉(自己中心)の存在であるから教育・文化が進んでも人間の欲望・犯罪もますます悪くなるのを見る。エゴは自分の欲望が満たされる時幸せを感じ、そうでないと不安を感じたりいらだったりする。要は人は何でも自分の思い通りかそれ以上にならないと面白くないという一面がある。



私達は自分なりの信仰ではなく常に御言葉に立ち基本に立とうではないか。

御言葉は、もし御霊によって歩くならば、決して肉の欲を満たす事はないと語っている。



アブラハムは「行く先を知らないで出て行った」とある。ただ神の招きに従った。神の最善の導きを信じて従うののである。この時、自分の中にある不安に負けている人がいる。行動を起こす前からすでに負けているのだ。自分の中にある自信、自分の力に頼っているからだ。聖霊がその時、その時、必ず働いて勝利する事が出来ると心の奥で確信する事が大切なのである。朝出かける時、人と会う時、証しをする時・・・。行く先を知らないで出て行く。アブラハムは、一歩先の事はどうなるかわからないけれど、主が共にいて守って下さるという一点には疑いや不安をやめて主に従ったのである。彼を支えたのは知識や経験ではなく神と共にあると言う臨在感だ。



「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」(ヨハネ14:18/16「それは真理の御霊である」(ヨハネ1417)と主は語っておられる。



御霊によって主との臨在感を期待し味わってみよう。慣れて来ると孤独感、寂しさはなくなりどのような状況でも心の内は平安で暖かく御霊の実が味わえる。主が共に居られる事が日常の実感となるのである。


















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by oume-akebono | 2017-09-03 15:39 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 15章5節)   大谷唯信牧師



「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」



私たちの「教会の祈り」は最初が「常にまず自分の内側を整える」である。内側を整えるとはまず主とつながることだ。そうすれば神の国(支配)の中にいることになる。「自分は今、キリストにつながっていますか?」と自分に問いかけてみよう。その時、自分の姿勢の現実に気づかされる。



その思いの中で、「私はつながっています。」と信仰で宣言し、同時に御聖霊の働きによって、神の御臨在に包まれている平安を信仰で味わいつつ、主を見上げるのである。すべてを信仰の出来事にするのだ。現実がどんなに苦しく、自分の期待と違っていても、不平はやめて「私は主につながっています」と宣言していくのである。



エジプトを出たイスラエル人の、40年間の荒野の旅は、正に不平不満、不信仰の旅であった。それは現在の不安なこの世の姿でもある。不信仰には必ず恐れが伴う。神はモーセを通し民に語る。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。…主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。(出エジプト記1413



不信仰はどうしても困難を通して神を見る。信仰は神を通して困難を見る。信仰は神の側、御国の中に居らせ、対岸の火事を見るように、出来事を見させてくださる。この世に居りながら、嵐の中であっても、神の支配の中で平安に満たされているのである。それは、「わたしは主につながっています」との信仰宣言によって与えられる恵みである。



その与えられた平安、知恵、希望が世の人から見ると不思議に見え、結果的に「世の光、地の塩」としての存在にされていくのである。しかし律法もそうであったように、福音も聖書の言葉も、生きた信仰によって霊の命を吹き込まなければ、単なる文字となり、「絵に描いた餅」になってしまう。感謝なことに私たちは生ける教会であることを覚えよう。




















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by oume-akebono | 2017-08-27 14:21 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 3章6節)      大谷唯信牧師



「神はわたし達に力を与えて、新しい契約に仕える者とされた。それは文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」



今、私達の連盟の全国諸教会が驚くほどに疲弊している。323もある伝道所・教会のうち昨年一年間で受浸者0人が193教会、礼拝出席者平均人数は40人以下となった。私達の教会は祈りの目標から見るとまだまだであるが、受浸者はその前年と同じく9人、礼拝出席は123人となった。これは全くの神の恵みであり御聖霊の働きに他ならない。心から主に感謝しよう。



諸教会の多くがなぜ疲弊してしまうのか。怠けているのだろうか。そんな事はない。皆、真面目で熱心に祈り取り組んでいる様子を見る。連盟を通して送られて来るバプテスト誌、宣教研究所からの宣研ニュースレターをはじめ、その他の報告、活動等を見ると、その時々の課題を取り上げ、正にレベルも高く活動的な精鋭部隊のようにも感じる。目を通すごとに教えられ学ばされる事が実に多い。しかし私の理解不足と思うが、現実の教会形成、教会の成長に対してとなると、ほとんど力にはならない。無味乾燥であり「だから何よ?」との問いが出てしまうのだ。強くなりたいと取り組んでいる土俵の力士に、相撲の成り立ちや歴史を聞かせているようなものに見えるのである。これは愚かな一牧師の感想であるからどうでも良いのだが…。ここまで諸教会が疲弊している現実を見るならば、もうそろそろ言葉遊びはやめて本気で御言葉に取り組む必要があるのでは、と思うのである。



一番の原因は、自覚のないままいつの間にか霊が肉になり、御言葉が文字になってはいないかということである。「文字は人を殺し、霊は人を生かす」のだ。エデンの園には、「善悪を知る知識の木」と「命の木」を神は植えられた。「知識の木は死に至るので食べるな」と言われた。この世は知識・情報を求める。死への道だ。故に教会は命の木から命を受け、死せるこの世にキリストの命を吹き込むことが使命なのだが…。






















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by oume-akebono | 2017-08-20 17:30 | 週報メッセージ

(箴言 3章5-6節)        大谷唯信牧師



「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、
主はあなたの道をまっすぐにされる。」



またまたアメリカの大統領は北朝鮮に対し、互いに相手を非難し、この時代に武力で牽制し、火の海にしてやるとの野次を飛ばす幼稚な行動で世界を騒がせ、自らの愚かさを得意気に現している。人間としての力以上の権限、地位、富を得たりすると人間は崩れると言われるが、その見本のようなものだ。


こういうときこそ日本は同盟国、おともだち等と言うなら、もっと毅然として世界人類の平和のために両者の中に飛び込み、教え、悟らせ、心に訴え、両者に責任と感動を与えるような態度や言葉一つもないのだろうか。被爆国の日本だからこそ出来ること、しなければならないことがある筈である。その立場にいる指導者達は、日本がこの歴史の現実から世界のために与えられている日本の立場、責任、使命の重さを感じているのだろうか。世界の人々の悲しみの声、世界の人々の平和への道筋を見ようとしているのか、否である。それぞれが個人主義に陥り自分の立場、自分の主義、自分の党派、自分の成功、栄誉…自分を守るために汲々としており、浮き足立ち、足が地に着いていないのではないか。



「少年(青年)よ、大志を抱け!」は有名な言葉だ。北大の前身、札幌農学校の宣教師の言葉である。「大きな志を持って」であるが、本来の言葉は「キリストにあって」、「キリストによって」の言葉が入っていたと言われている。キリストなしの大志では単なる野望になり、個人主義のエゴを脱するどころか拡大するからだ。エゴは世界に野火のようにすでに拡がっている。クラーク師はキリストを伝えたのだ。後の人はこれを消した。これが世の常である。今やエゴの炎が全世界に拡がっている。第1のものを捨てたからだ。冒頭の御言葉も捨ててはいけない第1のものを示しているのだが、どうであろう。第1のものとはキリストである。知識の木といのちの木は、常に目の前にあるのだ。






















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by oume-akebono | 2017-08-13 14:22 | 週報メッセージ

8月6日 成長する教会

(エペソ人への手紙 4章15-16節)      大谷唯信牧師



「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである」



健康的に成長しているキリストの教会の姿がここにある。もし、キリストにつながっているなら必ず実を豊かに結ぶのが教会である。同時に「わたしから離れては、あなたがたは何一つできない」と自然の命の営みを通して教会の霊的成長の命の原則を示している。生命は教理でも哲学でもなく教訓や教えでもない。教会の生ける命はキリストの御霊以外にはない。御霊によって歩んでいる教会はどのような状況にあっても豊かに成長する。私達はそう固く信じている。何故なら使徒行伝にある初代教会の歩みを見るがいい。あのペテロやパウロがどのようにして変えられたのか。思いを馳せる時今でも新しく多くの学び、発見、励まし、慰めを受ける。



聖書中の人物からは不思議に思えるほどに新しく教えられ、実に新鮮なのである。



共通している事が一つある。それは、皆、主に出会っている事だ。わたしも主に出会った。50年以上も前になる。以来、命の泉が内から湧き支えられている。自分自身を見ると不忠実そのもので勿体なく恥ずかしいのであるが、今やそう言うものを超えて、実に私達の教会が新しい霊の風に吹かれて主の働きを受けている動きが見え涙が止まらなくなった…どうした事だろう。教会の方々のいろいろな思い、喜び、悲しみ、祈りが霊に迫ってくる…どうしたらよいのだろう。」



「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5-6)


「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まる所にはわたしもその中にいる」(マタイ15:20)


全くその通りであった。先週のC.S.キャンプの主題聖句だった。「主と出会う」これを確かなものにしようではないか。




















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by oume-akebono | 2017-08-06 14:06 | 週報メッセージ

(箴言 3章5-6節)         大谷唯信牧師



「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。

全ての道に主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。」



信仰生活は宇宙ロケットに似ている。宇宙の軌道に乗るまでは、大きな燃料タンクをいっぱいにして昇って行くが、軌道に乗れば身軽になって宇宙の軌道の流れに乗り、管制室の誘導によって前進する。交信が途絶えれば、宇宙の藻屑にもなりかねない。



信仰生活でも求道中はまだ自力で燃料を燃やし、何とか頑張る。これはまだこの世で生きる普通の人の歩み方である。当然、この世の知識、技術等々に頼ってしまうのだが、肝心な生ける命となる燃料の確保、道を間違わないように、御言葉に向かうが一時もハンドルから手を離せない。自分の力に頼るからである。信仰は自分に絶望したところから始まる。絶望の中で主を仰ぎ、絶望の自分を主に投げ捨てるのだ。その時、神の軌道に乗っていることがわかる。



イエスは「思いわずらうな、天の父はあなた方の必要をことごとくご存知である。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるだろう」(マタイによる福音書633)と約束しておられる事も心に見えてくる。



冒頭の御言葉でもわかるように、私たちがすることと、神が私たちにしてくださることとを明確に見定める必要があろう。「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ」。これは私たちがすることである。教訓では昔のイスラエル人の失敗と同じく、律法主義になってしまう。私たちは御言葉一つ一つに取り組むのも「イエスの御名によって」の信仰で、「主を呼び求め、イエス様との出来事」として取り組むのである。



また自分の単独の出来事ではなく、キリストの体なる「私たち教会の出来事」として取り組むなら、祝福と霊的成長はさらに大きくなる。「生ける信仰は望んでいる事柄を確信し」とある。心をつくして主を信頼し、確信に至るまで主に呼ばわり、祈り信じて歩むのである。

























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by oume-akebono | 2017-07-30 15:03 | 週報メッセージ