カテゴリ:週報メッセージ( 454 )

(使徒行伝 1章8節)        大谷唯信牧師



「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて…地の果てまで、わたしの証人となるであろう」



主の計画はわたし達一人ひとりを「主の証人」にすることである。このことはクリスチャンであれば、当然のように理解していると思う。そこでそれをもう少し明確に捉えてみたいのだ。



私達はどのように主を見、意識し証人になろうとしているのだろうか。これは最も信仰の土台となる所であるから自らを明確にしておく事が必要だと思う。



「わたしはキリストを救い主として信じます」と信仰の告白をする。その時、証人としての責任も多少あると思う。そこで当時の弟子達の証人としての告白内容を見てみよう。「このイエスを神はよみがえらせた。そして、わたし達は皆その証人なのである」(使徒行伝2:33)「あなたがたは聖なる正しい方を拒んでいのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたし達は、その事の証人である」「イエスの名がそれを信じる信仰のゆえに…この足なえの人を強くしたのであり、…イエスへの信仰が彼を完全にいやしたのである」(使徒行伝3:14-16)又、「この人が元気になっているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺した主を、神が死人の中からよみがえらせたイエス・キリストの御名によるのである」(使徒行伝4:10)



即ち、「主の証人」としての告白は「よみがえりの主」、「死人からよみがえられた主」を告白する事にあった。「救い主」だけの証人では愛の人、優れた人、偉大な人のレベルであって理性的にも受け入れやすいが何の力もない。「主はよみがえられた」との信仰の告白にこそ理性を超えた信仰の霊的領域となって霊の火が燃え上がり神の力となっていく。よみがえりは理性と信仰が激しくぶつかるところだ。弟子達は復活の主に出会っても信じることができなかった。しかし主のよみがえりの告白にこそ聖霊が働いて下さる事を知ろう。


















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by oume-akebono | 2017-03-12 05:06 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 4章4節)    大谷唯信牧師



「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」



イエスは人が生きるのに一番大切なものとしてパンと神の言葉を上げている。パンとは勿論食べ物の事であるが広い意味ではこの世で得られる金、地位、環境すべてであろう。とてもわかりやすい。しかしこれ以上に大切なものとしてイエスは神の言葉をあげられた。だが何の事かわかりにくい。神の側からの出来事であるからその重要性、必要性の価値がわからない。故に捨て置く事になる。



腹が空けばパンを求め食う。これは当たり前でわかりやすい。犬や猫、何もわからない子どもでもわかる。今や世界は奪い合ってもパンを食おうとしている。ちゃんと食えるようになれば一人前との考えもある。食えなければ半人前、未熟者と見られる。しかし本当にそうなのだろうか



イエスはパンを否定しているのではない。パンだけではないと言われた。これに関心を寄せる人はどれくらい居るのだろうか。この世のあらゆる問題はこれを抜きにしてパンだけで生きているが故に起きているのだが。



これを知っているのが私達クリスチャンでありこれを証しするのが私達の神からの使命ではなかろうか。



神の言葉は聖書に記されている。イエスがパンと神の言葉の二つを並べている意味は深い。パンを食べれば体は生きる。頭で考えてパンの成り立ち、成分、造り方を研究し理解しそれだけで食べた気になる人はいないだろう。しかし神の言葉に対してそう言う人が沢山いるのだ。神の言葉は命のパンである。真の食物、即ち霊的食物なのだ。食べれば霊が生きる。霊的な力が与えられる。もし力が与えられないとするなら知的に理解し暗記しただけで食べてはいないのだ。マンネリ化しても同じ事が起きる。日々御言葉を食べると、理解、教訓レベルではなく自分の自我そのものが罪という自覚に砕かれ霊が生き霊の主に触れる。こうして霊性が深められていくのである。











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by oume-akebono | 2017-02-26 02:35 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章16節)   大谷唯信牧師



御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。




わたしたちの教会は必ず豊かに成長する。キリストの命である御霊が教会に注がれているからである。




神が与えた下さった独り子イエス・キリストも、十字架による福音の恵みも、わたし個人にではなく、わたしたち教会に与えられているのである。大きく言えば天地創造、アブラハムの選び、イスラエルの民の選び、そのすべての歴史、そして独り子イエス、十字架の死と復活、教会の誕生から現在のわたし達の教会までの歩みと今のわたし達の教会の在り方も、すべてが神の御手の中にある神の出来事であり御霊の導きにあるのである。決してたまたま起きた偶然の出来事ではない。すべてのものは、これ(キリスト)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(ヨハネ1:3)と聖書は語っているではないか。




私達の教会はさらに深く成長する必要がある。すでに与えられている恵みを「世の光」「地の塩」として世に仕えるためである。

だからと言って焦ったり思い悩む必要はない。御霊が押し出し促して下さるからである。




「御霊によって歩く」とは、常に信仰によって「主は我らと共におられる(インマヌエル)」と言う信仰で歩む事だ。




信仰は決してマンネリ化ではいけない。わたし達が救われたのはイエス・キリストを信じその信仰によって救われたのである。

この信仰は自分の中で明確にしておく必要がある。からし種一粒の小さな信仰であってもその根拠は自分ではなくキリストにあることを覚えよう。




ガラテヤ教会はパウロに叱られた。「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。 あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。(ガラテヤ3:3-4)と。

一所懸命であってもいつの間にか肉の働きに変わっていることがあるのだ。わたし達が教会である。教会と私達の成長は一つである。

御霊に歩もう。





















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by oume-akebono | 2017-02-19 01:38 | 週報メッセージ

(箴言 4:23)          大谷唯信牧師



「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」



主は「心を守れ」と言われる。「心」と言うとわたし達は真心、豊かな心、また心を尽して等と美しい純粋なイメージが出てくるものである。確かに誰もがそのような美しいものを求めていると思う。たとえ少し足りなくてもある程度の温かい心、真実な心は持っていると自負している。


ところがそれがそもそもの間違いなのだ。サタンからの落し穴である。人生を狂わせ、世の中を狂わせている元凶なのだ。主は「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従って来なさい」と言われた。即ち、日々自分を捨て、日々与えられてくる自分の十字架を負って主に従う、そこに命の泉は流れ、その結果わたし達は命の泉を得たのではないか。これは自分を捨て自分の十字架を負った結果与えられた命である。それがいつのまにか前提になりそれを守り維持しようと自分の中で固まってはいないだろうか。知識は大切である。


しかし、「知識は人を驕らせ、文字は人を殺し」と命のないものに変化してしまう事に気をつけねばならないのだ。サタンはこの世に神の言葉を疑わせ否定し知識をアダム達に取らせた事は未だにわたし達にも向けられているのである。パウロは「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの経験をしたことは、無駄であったのか」(ガラテヤ3:3-4)と語っている。信仰による霊の出来事がいつの間にか知識による肉の出来事にすり替わっているのである。


どんなに素晴らしかった出来事、感動であっても過去になるとしだいに死んだ文字になってしまう。知識、習慣、伝統、経験、すべて大切なものだ。それが死に体になるから気をつけねばならない。「油断することなく」である。今迄の経験、知識を生かすには、これに頼るのではなく日々自分を捨て、十字架を負い主に従うことである。信仰によって常に霊の命を吹き込むのである。




















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by oume-akebono | 2017-02-12 23:07 | 週報メッセージ

(マタイ 5:13-16)      大谷唯信牧師



「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である「あなたがたの光を人々の前に輝かし、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」



新年を迎え早くも二月を迎えた。正に「光陰矢の如し」を感ずる。私達の教会は皆様の祈りと信仰によってますますキリストの命ある教会としての成長を与えられている。何と感謝なことか。神は聖霊によってイェスをこの世に賜り聖霊によって教会を誕生させ、キリストの十字架の福音を私達教会に委ねられた。これが世界宣教の神のやり方なのである。私達は自分達を見て小さく弱い者と嘆いてはならないのだ。神が昔イスラエルの民を選んだ時と同じである。


「主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなた方を愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなた方がどの国民よりも数が多かったからではない。よろずの民のうち、最も数が少ない者であった。ただ主があなた方を愛しあがない出されのである」(申命記7:6-8)


神はすべての御計画を今や教会を通してなされる。もし教会が何もしなければ神の働きは止まってしまうのである。しかし信仰によってこれを引き受け教会のかしらであるキリストにつながり前進するなら神の豊かな御業を見ることになろう。


今年も連盟よりわたし達教会の祈りの課題を尋ねられた。私は常日頃示されている事を記して見た。「聖霊充満の教会」「セルによる相互牧会での成長」「全員が主の証し人」「毎週の礼拝は特伝」「礼拝150人」「受浸者15人」である。
私達は見せかけではなく「本物の信仰を求めようではないか。数や形ではない。富める青年、ニコデモ信者ではない。これは肉の上に御言葉を美しく塗り上げているだけだ。御言葉で外なる人(自我)をはぎ取るのである。そうすれば内なる光が放たれ内なる塩がとけ出し味わいある者とされ自然と証し人となるのである。
























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by oume-akebono | 2017-02-05 23:07 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 10:17-22)   大谷唯信牧師



「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております。」



莫大な資産を持つ「富める青年」がイエスに応えた言葉である。「それらの事」とは「殺すな、姦淫するな、盗むな、父と母を敬え」。十戒の後半部分であり、当時のユダヤ人ならだれもが知っている、ごく常識的な戒めであった。青年は先に一つの質問をイエスにしたのだ。


それは社会問題でも、平和問題でもない。単刀直入に「永遠の命」の事であった。しかも「それを受けるには何をしたら」と真正面からの取り組みである。その態度、その問い、正に非の打ちどころのない立派さだ。その言動からは、小さい時から恵まれた環境で、高い教育を受け育ったことが窺われる。ところがこの青年の反応は、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」であった。即ち、その腹は「そんなことは、前々からわかっていますよ。他に何かないんですか!」である。


知識としての記憶だけなら、当然「それは知っています、わかっていますよ」となるだろう。自称完成してしまうのだ。知識教育の問題点ともいえる。だからまたすぐに新しい教訓が欲しくなる。この時、イエスがそのような教訓を与えたなら、彼は喜んで「わかりました!」と言うであろう。ここに私達や教会の、成長出来ない原因があるのだ。


イエスは何でもわかってしまうこの青年に、敢えて絶対にできないような課題として、「あなたに足りないことが一つある」と提案した。彼はその内容を聞くと、「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」。ということは初めて彼は本気で聞いたのだ。しかし、取り組まず立ち去った。自分にはとてもできないと思ったからだ。


イエスは全財産を人に施せ、と言おうとしたのではない。「あなたの足りないところを一つ」と言われたのだ。どんなに立派な人間でも、足りないところは一つや二つはあるであろう。その足りないこと一つが自分の殻を破り、救いを得させ、深める入口だと、教えておられるのだ。御言葉の先に自分の足りない所を照らし、その姿、その原因を正直に見る時、神と取組むことになるのである。
























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by oume-akebono | 2017-02-01 18:39 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 1:3-5)   大谷唯信牧師



「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」




何と驚くべき事か。神はわたし達を天地の造られる前からキリストによって選んで下さった。それはキリストの愛によって神の子たる身分を授けると語るのである。それは何のためであろうか。自分の喜びのためだけではないのである。それは「子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるため」(エペソ1:6-7)なのである。


私達の教会は今、沢山の恵みを受けている。御聖霊が教会に注がれているからである。すべて御聖霊の出来事である事を覚えよう。恵まれた時、サタンは私達に入り込んでくるからだ。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」(エペソ2:8-9)


誇り、高慢は自覚症状がないから気をつけよう。そう言う積もりが全くないのに起きるのである。ちょっとした事でイライラしたり不満が出たり、ある人が苦々しく思えたり等のかすかな心の働きは肉の働きである。信仰年月の古い人も新しい人もサタンは巧妙に信仰や善意の中にすべり込んでくるから気をつけよう。油断してはいけないのだ。油断とは霊の油が切れる事である。パウロは言う「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラテヤ6:7)と警告している。私達の教会は今が大切な時だ。「善を行うことに、うみ疲れてはならない・・・」(ガラテヤ6:9)



















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by oume-akebono | 2017-02-01 18:37 | 週報メッセージ

(使徒行伝 4:13)       大谷唯信牧師



「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った」



あの弱かったペテロが驚くべき変身を遂げた。わたしは若い時ここに大きな魅力を感じたものである。同じような事で本当に悩んでいたからである。いつも失敗してイエスに叱られていたペテロ。常に熱心ではあるが思ったことをすぐ口に出し行動するが失敗となってしまう。良かれと思っての事が結果的には失敗となる。「サタンよ退け!」とまでの叱責を受けたり、ユダの裏切りに激怒し自分は心から忠誠を誓うのだがイエスに言われた通り、ユダと同じ道をたどってしまう。


どうしてこうなってしまうのだろうか。肉の次元でやっているからだ。イエスは霊の次元で語るのだがペテロは肉の次元でしか分からなかったのだ。どんなに熱心でも、心を込めても、否、正しい事でも「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う」(ローマ8:5)。エッ!それは何だ?と思ったが「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」(ローマ8:6)の通りであった。ペテロはそれが分からなかったのである。しかし、イエスの約束通り聖霊が注がれた。神の霊のいのちが弟子達に注がれたのである。その瞬間から彼らは創造された人間本来の霊に生きる者となったのだ。新しくされたその記録が使徒行伝である。ペテロは主に変えられた。


パウロも同じ新しくされた経験をした。「律法の義については落ち度のない者、ヘブル人の中のヘブル人、パリサイ人であり罪のない完全人間である」と誇り高い者であったがキリストの光に照らされて以来、自分を無きに等しい者、「罪人の頭である」と言う程の深い罪の自覚が与えられた。「わたしはキリストと共に十字架につけられ死んだ。生きているのはもはや、わたしではない。キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2:19-20)と告白し、私達への救いの道筋の一つとなっているのである。






















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by oume-akebono | 2017-01-21 15:54 | 週報メッセージ

(マタイ 16:24)       大谷唯信牧師


「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」



「人のふり見て我がふり直せ」との昔からのことわざがある。「反面教師」との言葉もある。又「人の上見て我が身を思え」もある。どのような人、状況にあっても、ただ眺めているだけでなく自分に照らして自分と取組めと言う事であろう。そうすればすべての人から尊い学びを受けることが出来るのである。「我以外皆我が師」と言う事になる。


人生は傍観者であってはならない。御言葉を教訓的に受け取ってのクリスチャン(信仰生活)であってはならない。どんなに一所懸命で真面目であっても何一つ変らないからである。
信仰生活を何年もしているのに心の内に平安もなく喜びも湧いて来ず、常に他の人に励まされ支えられなければ信仰による救いの確信がないという方は自分の心を正直に見てその問題点を発見する必要がある。どこか勘違いしている点があるはずである。どんなに熱心でもピントがずれたままの熱心では実を結ばないからだ。


あの富める青年は人前でイエスに走りよりひざまずき「永遠の命を得るためには何をしたら良いのですか」とたずねた。正に謙虚で真面目な好青年であろう。しかしイエスが律法の教えを説かれた時、「先生、それらの事はみな小さい時から守っております」とさわやか答え他に何かありますか、教えて下さいと言う態度であった。パウロもイエスに出会う前は同じ自称完成者であったのだ。ユダヤ人全部がそうであった。パウロはキリストの光の中で吟味した時、初めて自分の意志や思いに関係なく「わたしは罪の奴隷、罪人の頭と叫ぶ程目が開かれたのであった。どうであろうか。わたし達もパウロと同じく「わたしは罪人の頭である」と言えるべきではなかろうか。信仰の喜びは自分の罪の深さの自覚に比例するのである。自分の存在そのものが罪の塊と覚えた時、一切の罪許されたりとの確信が湧き上がるのだ。























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by oume-akebono | 2017-01-21 15:51 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙6:6)  大谷唯信牧師


「わたし達はこの事を知っている。私達の内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたし達がもはや、罪の奴隷となることがないためである」





 いよいよ新しい年を迎え新しい希望に歩もうとしている。新しい希望とはキリスト御自身である。自分一人で歩むのではなく、キリストと共にキリストの中ですべてをキリストとの出来事と言う信仰を意識的に持って生活するのである。


 私達は自分一人、単独で、と言うものではないのだ。何故なら私達は皆、キリストのからだとしての教会につながりキリストの命を持つ共同体として互いに仕え生かし合う「神の家族」とされているからである。私達が受けたバプテスマはキリストと共に死に葬られキリストと共によみがえらされた恵みの信仰告白なのである。


 しかしこの信仰が生きた真実なものとなるには現実に直面する自分の内外から出て来る罪と向き合わねばならない。ローマ書7章の罪との戦いに信仰によって勝利する経験を得る必要がある。多くの信者が良きクリスチャンになるために自分の行い、自我の力で勝利しようとしてしまう。信仰によって戦おうとするが、実は自分の力で戦ってしまうのだ。


勝利すれば自我が誇り、負ければ敗北感、挫折感となる。自我が中心の信仰だからである。ここで浮き沈みしている者は実に多い。自分の信仰だからである。自分の決意に支えられている信仰はまだ入口である。その奥に入るには自分の全身全霊で取り組み、完全に敗北し剣は折れ矢も尽き果て「わたしは何と言う惨めな人間か」と絶望の中で主に委ねる、この時の全託こそが信仰、と言う出来事になるのである。信仰が頭での理解、納得ではなく全身で救いの確信となり「神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたし達のいっさいの罪をゆるして下さった」(コロサイ2:13)となるのである。自我の働きが尽きた時、御聖霊が働いてくださる。一切の罪が許された解放を知るものとなろうではないか。




















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by oume-akebono | 2017-01-07 15:03 | 週報メッセージ