カテゴリ:週報メッセージ( 490 )

(ヨハネの第一の手紙 4章18~19節)        大谷唯信牧師



「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを取り除く。わたし達が愛し合うのは神がまずわたし達を愛して下さったからである。」



神は私達のすべてを御存知であり、御自分の御手の中で私達を包み導いておられます。私達にとって良い出来事も悪い出来事も神はすべてを主の訓練の時にして下さいます。あなたには恐れがありますか。上の御言葉を読み、十字架のイエスの愛の中に身を置いてみましょう。



神は独り子イエスをこの世に賜わり、私達の罪を贖い、死から永遠の命に移る道となられました。主の救いの御業はすでに完成され、私達に差し出されているのです。御言葉(聖書)は神の約束です。であるならば、「聖書は私の信仰です」と応答しましょう。さらに「その名を信じた者には神の子となる力を与えた」と、すでに完了している形で言い表しているのです。しかも、「それは血すじによらず、肉の欲、人の欲によらず、ただ、神によって生まれた」(ヨハネ1:12-13)とあります。この世が普通、人に対して求めるような条件を神は求めていません。ただイエスを信じる信仰のみを求めておられます。ところが「自分の民はこれを受け入れなかった」。信じなかったのです。何故でしょう。最初の人アダムはサタンの誘惑に乗り、神を拒絶したのです。神の霊なる命を失い、肉(エゴ)の心になったと聖書は語っています。



神は聖書によって神を現して下さいました。私達人間が神を知り神と出会っていくためには、どのような態度で取り組むべきかを教えているのです。聖書は人間の知識によって研究され書かれたものではなく、神からの啓示によって書かれました。人間の肉の目では神の霊の領域は見えません。神はイスラエルの歴史の現実の中にかかわり、救いの計画を啓示され、律法を文字で与え、その完成としてイエス・キリストの十字架の出来事を目に見える啓示として与えて下さったのです。現在の私達にこの福音が伝わるまでに6000年もかかっています。



現代社会は恐れ、不安、恐怖で満ちています。神の愛が必要です。神の愛とはイエス・キリストです。





























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by oume-akebono | 2017-11-19 16:57 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 3章16節)       大谷唯信牧師



「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」



神は昔は預言者達により、いろいろな時に、いろいろな方法で先祖達に語られたが、この終りの時には、御子によって、私達に語られたのである。(へブル1:1-2)



神は今のこの時代にも生きていて確実に私達を支え導いておられる。



しかし、現代の多くの人は神については観念的に何となく意識するだけで、はっきりとはわからず、又、わかろうともしないのが一般的ではないだろうか。信仰は日常生活に日々力を与え豊かな命が与えられるのであるが、多くの人にとっては何か特別な宗教的な精神修養をする事であり、普通の自分の人生にはほとんど関係のないものと見ているのではなかろうか。



神は私達に聖書を通して神を現わして下さり、私達人間が神を知り神と出会っていくためにどのような態度をとるべきかを教えて下さっているのである。聖書は人間の知恵や知識、研究等によって書かれたものではない。それらをはるかに超えた「神の霊感によって書かれた」正に神の啓示の言葉である。さらに神の最大な啓示は神の独り子イエス・キリスト御自身であろう。



この聖書によるならば、神を信じるためにはまず神が啓示として賜わって下さったイエス・キリストを信じることである。イエス・キリストを抜きにしては誰も神を信じることは出来ない。「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神を現わしたのである」(ヨハネ1:18)と聖書は語る。これら神の啓示として現わされた聖書を私達は「私の信仰」として取り組むのである。書かれている御言葉、そこに秘められているメッセージを信じるべきなのだ。聖書は私達への「神の約束」である。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが救いにあずかる私達には神の力である」(Ⅰコリント1:18)聖書による神の約束を自分の中で現実化する事を願うのであるが、聖書の助けを求めつつ取り組むのである。








































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by oume-akebono | 2017-11-12 16:54 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章16節)         大谷唯信牧師



「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」



「御聖霊さま、私は今あなたと共にいる事を感謝いたします。これからも常に最善に導いて下さることを信じ感謝いたします」


この祈りは寝ても覚めても意識のある限り、祈り、思い、念じ、主と共にある事を心で味わいつつ主を賛美するのだ。嬉しい時、悲しいとき、落ち込んだ時、その現実を受け入れつつ、その実情もそのまま主にお話ししつつ信仰によってこの祈りを捧げる。これを習慣にしてほしい。



これによって主の御臨在(聖霊)に触れ心に平安が与えられるからである。闇の中にあっても心に火が灯り安心と元気が満ちてくるのである。御言葉でも頭で覚え唱えていても教訓程度のものであって力にはならない。聖書研究で御言葉を学んでも同じである。所詮、絵に描いた餅である。御聖霊への信仰を持って御言葉を味わい食べる時、御言葉は文字ではなく生けるパンになって神の力となるのである。これは子供でも初心者でも誰もできる。「わが子よ、わたしの言葉を心にとめ、わたしの語ることに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さずあなたの心の内に守れ。それはこれを得る者の命であり、また全身を健やかにするからである。油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流であるからである。(箴言4: 20 27)を読んでほしい。



この世はアダム以来、知識の木の実を食べ発展してきた。どんなに美しくきらびやかに飾ろうがそれは死に向かっていると聖書は最初から語っている。この世は神から離れ人間の肉(エゴ)で積み上げて来た。イエスは「人が生きるのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)と語っている。現代社会を見てほしい。科学文明が発展するほどいよいよ人間が壊れて来たのである。「砂の上に家を建てている「愚かな者」と同じなのだ。御霊によって歩くならば悪の支配から解放され御霊の実ー愛、喜び、平和、寛容)」と真実が恵みとして流れ込んで来るのである。


























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by oume-akebono | 2017-11-05 16:50 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 5章17節)    大谷唯信牧師



「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」



このように誰でもキリストにつながるならば過去の古い自分は去り全く新しい命、キリストの命とされて生きられるのである。どうしたらそのようになるのだろうか。それにはまず自己を中心に生きてきた罪(エゴ)を悔いてイエス・キリストを救い主として信じ(受け入れ)、バプテスマを受ける。ここから新しい生活が始まるのである。「誰でもキリストにあるならば新しく造られたものである。」どんな過去でも罪でも関係なくその人は新しく造られたものとされる。「そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒行伝238)と約束されているのである。



即ち、わたし達がイエスを信じる信仰をもつ時、常にそれを支え導く聖霊が賜物として注がれる事になっているのだ。「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(使徒行伝239



パウロはイエスを迫害する者であったがイエスに出会い回心しその直後聖霊の注ぎによって全く新しくされ伝道者として用いられたのである。ペテロや弟子達もイエスの天に帰られた後は恐れと不安の中で動けなかった状態にあったが聖霊が約束どおり注がれてからは、周りも驚く程に堂々と説教し主の証人として立ったのである。



その力の秘訣は何だったのだろうか。それはただ一つ、聖霊であろう。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて・・・地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝18)である。しかしここで大切な事はどのようにして待ち望んでいたかではなかろうか。パウロも弟子達も共通しているのは、「祈っていた」事だ。「共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」のである。祈りによって生まれる主の臨在感の中にいた事であったのだ。小さな祈りの火をともしていたのである。































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by oume-akebono | 2017-10-29 16:46 | 週報メッセージ

(へブル人への手紙 11章8節)    大谷唯信牧師



「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。



現在の諸教会は、何故低迷しているのか?その答えは実にはっきりしている。それは、御言葉と聖霊によっての、神に対する生きた信仰を失ったからである。現代の教会は見事に、狡猾なサタンの術中にはまっているのだ。即ち、知識と観念の言葉遊びの世界をつくり、自分なりの教会を形成しつつ、神の言葉という永遠の命の話題に興じている、正に富める青年のようである。



これは「善悪を知る知識の木」の実を食べたアダムの路線である。サタンによって眼がさえぎられ、真理が全く見えなくなっている。イスラエルの民の二の舞だ。「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(ヨハネの黙示録 2:4)謙虚にこれを認める所からの再出発が必要だろう。



これは他人事ではない。この世の社会も教育、経済すべてが真実から離れ、この世の闇に迷い込んでいる。肉が基準になっているからだ。私たちも、油断禁物。大きなことは言えない。パウロのように「わたしは罪人のかしらである。」との認識に立ち返って、新しく出発することだ。



幸い私たちの教会には「からし種一粒の信仰」は与えられている。主の恵みによって霊の命があるではないか。キリストの恵みを受けているではないか。だからこそ、新たな志を持って「あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求め」(ペテロの第一の手紙 21-2)ようではないか。



知識は人を驕らせ盲目にする。自らが盲目であると認めた所から霊的な目が開いてくるのだ。「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識にたよってはならない、すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言35-6)これこそアブラハムの信仰の歩みである。信仰を知識で止めてはならない。知識は肉の殻となる。このレベルの教会では、魂は救われないことを知ろう。
























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by oume-akebono | 2017-10-22 16:39 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 4章18節)     大谷唯信牧師



「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。」



パウロは「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」(Ⅰコリント1:18)と神の啓示によって語っている。ならばわたし達も、御言葉を通して神と向き合いその光によって自分の現状と向き合うべきではなかろうか。それは自分も御言の光に照らされて神の啓示(メッセージ)を受けるためである。



本当に御言がわたしにとって神の力になっているのか。「愛には恐れがない」「完全な愛は恐れを取り除く」「わたし達は互いに愛し合おうではないか」。御言葉に聞き、受け入れ従うとはわたし達もよく知っている。しかし実際にわたしは御言葉が自分の中で生き生かされ、以前より解放された勝利の喜びに満ちているのだろうか。その変化が親しい人達に自然に証しとなっていくのであるがどうであろうか。わたし達が主の働きの証人として立たせるために御聖霊が導き背中を押して下さるのだ。それらは初代教会の歩みに見る通りである。「イエス・キリストはきのうも今日も変ることがない」。わたし達の教会にも同じ恵みが与えられているのである。



もし、御言葉が自分の内に実現していないと見るならば正直にその問題点を探すべきであろう。主はそれも必ず示して下さる。その問題の一つは、あの「富める青年」に見る。求めてはいるのだが主の言葉に対して「小さい時から守っています」等と答えてしまう。頭で理解し知識で知っている正解を出しただけで現実の自分とは向き合っていないのである。誰にも起る事だ。



私達は愛そうと願い、又、愛している時ですら相手に対し反感や嫌悪、時には憎しみすら心の奥に秘かに感じる者だ。人はどんなに愛しても一分のすきもなくぴったりと一致する事はない。期待しても要求しても人間がちがうのだ。だから愛し合う(認める、許す、尊敬)。それ以上は支配しようとするエゴ()にすり替ってしまうのだ。聖霊に拠り頼め!そうすれば出来る!他に道はない。









































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by oume-akebono | 2017-10-15 16:43 | 週報メッセージ

(ペテロの第二の手紙 3章18節)        大谷唯信牧師



「わたし達の主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」



私達は神の恵みと知識によって生かされ成長する。神の恵み、神の知識とは何か。パウロは語る、「十字架の言は滅びる者には愚かであるが、救いにあずかる私達には、神の力である。この世は自分の知恵では神を認めるには至らなかった。それは神の知恵にかなっている。そこで神は宣教の愚かさで信じる者を救うこととされたのである。それは十字架につけられたキリストである。」(Ⅰコリ1:18)それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。



「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおして来たのである。」(ヨハネ1:17)

旧約では人は常に失敗であった。律法はあっても守る力がなかったからだ。真理(律法)は罪を裁くだけであったからである。



しかし、神はひとり子なる真理によって罪を指し示し、同時にめぐみによって罪を贖い勝利を与えてくださった。これを信じる信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力であると聖書は語る。「世に勝つ者は誰か、イエスを神の子と信ずる者ではないか。」(Ⅰヨハネ5:5)



では、実際にこの恵みを受けるにはどうしたらよいのか。まず御言葉によって自分の罪を一つずつ明確にとらえ、自分の罪として認めることである。「思いわずらうな」と御言葉が言う、自分は思いわずらっている。それは罪である。御言葉は「許しなさい」とある。しかし許せない。これは自分の罪である。はっきりと自分の罪であることを認めよ。これが大切なのだ。孤独で寂しく悩んでいる。主は「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と言われている。これも自分の罪である。



主イエスは罪を贖うために来られたのだ。「主よ、この罪を贖ってください」とはっきり祈り、主の十字架に委ねるのだ。御聖霊はあなたを助け、孤独感も不安も消え平安に変わるのである。恵みとは、自分に替わり主がなさってくださる事である。





























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by oume-akebono | 2017-10-01 15:59 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 12章2節)    大谷唯信牧師



「…心を新たにすることによって、造りかえられ、…」



どのような素晴らしい信仰を得ていても、日々新たに造りかえられることを失ったならば、その信仰は観念だけとなり、死んだものとなる。そこには命も力もない。たとえ深い人生観を語り、学識に富んだ言葉であっても「やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである」(コリント人への第一の手紙131)。魂を救う力はない。ということは、ベテランのクリスチャンであっても、説教者であっても、失格者になり得るわけだ。



この世の肉の事であるなら、誰にでも目で見え、手で触れることができるので分かりやすい。しかし、霊の事は霊の心が開かれていなければ、見えないのである。勿論、霊の命を持っている者には、相手が霊の命を持っているか否かはすぐに分かる。荒野のヨハネが群衆の中に居られるイエスを見て、一瞬にして「見よ、神の小羊」と叫んだのに対し、学者やパリサイ人達には、イエスの中に霊なる神の命が見えなかったのだ。



そういう者たちが指導者になっていたから、イエスは「盲人が盲人の手引きをする」(マタイによる福音書1514)と言われたのである。内面の問題は実に観念的になりやすい。神学で塗り固める余り、本来の自分の命が消えていることに気付かない。奉仕や活動でも同じことが起こる。



勿論、神学も奉仕も必要なのだ。なくてはならない大切なものである。だが、これらは永遠の命を得るための手段でしかない。ではこの手段を通して何を得るのか。目の前におられる生ける主と出会い、永遠の命をいただき、復活の主と出会った者として、ペテロ達のように「主の証人」として立ち上がることである。



ペテロ達は神学や律法を論じたのではない。人々は彼らを見て「大胆な話しぶりを見、同時に二人が無学なただの人達である事を知って不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者である事を認め…」(使徒行伝413)と聖書は伝えている。彼らは論じたのではない。「イエスの名によって立ちて歩め!」と主を証したのだ。これこそ、日々聖霊によって新たにされている教会の姿なのだ。






























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by oume-akebono | 2017-09-24 17:55 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 13章23節)           大谷唯信牧師



「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」



教会の成長と私達の成長は一つである。これを受けるには私達が日々に祈りの中で御言葉を信じ実践し生活の中で味わい、「この御言葉は本当だ」と確信を持って言い切れるようになる事だ。それは自分の小さな考えや、サタンの巧妙さに陥らないためである。サタンの目的は一つ、私達をキリストから、教会から離れさせ信仰を失わせる事だ。



御言には私達を新しく造り変える力がある。自分の心の奥に御言を落とし込もう。自分の思いの中では常に霊と肉とが戦っている。サタンは肉に語りかけ肉の欲する方へ導く。肉の語りかけはわかりやすい。生まれながらの肉の五感で理解できるからである。自分の欲望、興味にストレートにつながっている。しかも肉は「目には目を、歯には歯を」と肉特有の報復の世界となる。肉では平和は造れない。



御言は語る、「肉の働きは敵意、争い、そねみ、怒りのたぐい」(ガラ5:20)と。今の世界情勢が正にこれである。互いに正義、平和を求めながら口汚くののしり合っている。日本もこれに加わっているのだから情けない。「気をつけるがよい。もし互いにかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互いに滅ぼされてしまうだろう」(ガラ5:15)と警告しておられる。これらの国の指導者はここで戦争が起きてしまったら世界に対して本当に責任が取れるのだろうか。本当に相手国に対して本気で謙虚に向き合っているのだろうか。全くそのようには見えない。自分の権勢を誇り相手を馬鹿にして…。しかし、これが私達の高慢な姿の本音である。何千年たっても肉は変わらないのだ。変えられないのである。



肉は肉、滅びしかない。 … どうしたらよいのだろう。御言に生きるのだ。御言には御霊が働いておられる。御霊によって歩くとは御言を信じ神の臨在を信じ、従う。平安はここから来るのだ。


















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by oume-akebono | 2017-09-17 14:49 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2章12節)   大谷唯信牧師



「あなたがたはバプテスマを受けて彼(キリスト)と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」



バプテスマはキリストを信じる信仰の出来事として見るならば、単なるセレモニー以上のものである。神が天地を創造した奇跡に匹敵するほどの大きな出来事なのだ。「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3:11)。即ち、天地を創造したと同時に人の心に永遠の天地を包み込む広大無変な思いを与えられたのである。「思う思い」とは永遠を思う「信仰」のことである。



人の心は汚れに汚れ目先のこと、自分の手で触れたものしか見えなくなってしまっている。何と小さく疑い深く狭い存在になっている事か。自分の小さな世界で独りぼっちのお山の大将である。本音は自信もなく寂しいものである。意味のない虚勢に生きているだけだ。だから「目を覚ませ」と聖書は語りかける。「愚かな者は心のうちに『神はいない』と言う」(詩篇53:1)何故か?「清くならなければ、誰も主を見ることはできない。すべての人と相和し、自ら清くなるように努めなさい」(へブル12:14)「心の清い人たちは神を見るであろう」(マタイ5:8)と聖書は語っているのである。



バプテスマを受けるという行動はイエスを救い主として信じる自分の信仰告白なのである。「心で信じて義とされ、口で告白して救われる」(ロマ10:10)つまり信じた事を口で告白し公にする、宣言する、この行動が伴う事が大切なのである。



バプテスマは肉から霊への新しい命の誕生であり新しい出発である。だからと言って急に完全になるのではない。神の子とされ永遠の命の世界に誕生したのだが霊的には赤ちゃんである。教会の交わりの中で成長し主の器、証し人として成長するのである。同時にサタンの働きは激しくなるので甘く見てはいけない。狙いは一つ、それは私達をイエスと教会から引き離す事だ。暖かく正しい論理で迫るから気をつけよう。





















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by oume-akebono | 2017-09-10 13:45 | 週報メッセージ