2017年 04月 02日 ( 1 )

(コリント人への第一の手紙 1章18節)       大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。



わたし達の教会も4月を迎え、新年度をスタートしたのである。昨年は「御言葉による霊的成長」をテーマとして歩んできた。今年はその延長線ではあるが、さらに御言葉の力を信仰によって獲得し「生きた教会」とされ神の安息に満たされ「主の証人」として立ちたいからである。



その力の源は御言葉にある。御言葉によって神と出会えるからである。「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」(詩篇119:130)「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119:105)「あなたの御言葉を愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません」(詩篇119:165)このように御言葉は大いなる力が秘められているのだ。



しかし、同じく御言葉を聞いて労苦を共にし歩んで来たにもかかわらず、何ら意味がなかった者もいたと聖書は語る。何故か!それはわたし達も知っておく必要があろう。「その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。(ヘブル4:2)

7000年前のアダムの時から現在まで、成功と失敗は同じ原因である。即ち、信仰と不信仰の違いだけである。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。(ヘブル11:6)のである。



信仰は上からの神の知恵を得る。この世の人は神を信ぜず自分の知識、この世の常識で生きるのを良しとする。しかし人は、人間の考える理性、常識以上に深い霊的存在、自分を超えた霊的存在であることを受け入れない。パウロも神と律法の専門のパリサイ人であり完璧と自覚しキリストを迫害したが、キリストに出会い霊の目が開かれた瞬間、自分の高慢、罪深さに気付き、全く砕かれ伝道者となった。十字架の言こそ神の力であり真実自分の求めているものであったことに気付かされたのである。今年度は常識を越えた「山をも動かす信仰」が課題である。




















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by oume-akebono | 2017-04-02 15:30 | 週報メッセージ