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青梅あけぼのキリスト教会 omeakebono.exblog.jp

青梅あけぼのキリスト教会 日本バプテスト連盟 牧師 : 大谷唯信 副牧師 : 森元國文 〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3 ☎︎0428-76-0634


by oume-akebono
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6月21日  聖霊の命に生きる

(使徒行伝 4:13)   大谷 唯信 牧師


「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人達であることを知って、不思議に思った」


あれほど弱かったペテロたちが聖霊の注ぎを受けて以来、人々が驚くほど大胆な人間になっていた。彼らは預言者ヨエルを引用しつつ自らをキリストの十字架の死と復活の証人として宣言した。人々は彼らがただの無学な人である事を知り不思議に思ったと言う。

聖霊はキリストの命だ。わたしもこれに似た経験があったがこの命が入ると自分でも驚くほど大胆になり本当の自分になるのである。人の心が感じられ一番必要だと思うことが次々に言葉になって出てくるのであった。

ところでパウロはコリントの教会に行った時、「弱くかつ恐れ、ひどく不安であった」と述べている。あれほど強くすぐれていたパウロが何故こんなに弱くなっているのだろう。それは霊の命をいただき、霊の命で生きようとするとき、従来の肉の部分はとても弱くなってしまう事ではなかろうか。弱いからこそ「巧みな知恵の言葉によらないで霊と力との証明によった」(Ⅰコリント2:4)のである。

私にもよくある事なのだが、霊の命で歩んでいる積り従来の肉で歩んでしまう。以前より肉は弱くなっているし、霊はまだ強くなっていないとのジレンマとなるのだ。パウロはどのようにして勝利したのか。「いつもイエスの死をこの身に負うている、イエスの命がこの身の現れるため」(Ⅱコリント4:10)と語り又、「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや、私が生きているのではない。キリストが私の内に生きておられる。」(ガラテヤ2:19-20)即ち「キリストのために命を捨てる者が命を得る」との信仰に立つ事であったのである。
by oume-akebono | 2009-06-24 15:40 | 週報メッセージ