2009年 03月 29日
3月29日 真の自由・平安を得よ
(ローマ6:12-13) 大谷 唯信 牧師
「あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」
人の生き方には二つある。自分を「不義の武器として罪にささげる」生き方と「自分を義の武器として神にささげる」生き方である。神は後者の生き方を選べとすすめておられる。ところが世の人は一般的に二つの間違った考え方をしている。一つはクリスチャンになると束縛されると言い、二つは未信者である我々こそ自由である、と言うものだ。
世の人は本当に自由であろうか。ここ10年、毎年3万人以上の自殺者が象徴しているように、益々複雑な社会現象の出来事の中で不安、疑い、怒り、憎しみ、争いの波が荒れ狂っているではないか。どこに自由があるのだろう。聖書はこの世の人こそ不自由そのものであって束縛されていると語る。
まず罪によってである。すべての者が「罪のドレイ」(ヨハネ8:34)になっているとまで言い切る。
次に自己によってである。自分の思う通りなる事を自由と思っているがそれが全ての間違い、自己の欲望のドレイ(ローマ7:13)ではないかと語る。
最後にはサタンのわなの中にある(IIテモテ2:26)と、言う。これほどの醜悪なものをかかえ込んだままでどうして人生の命を輝かす事が出来ようかと。これは一般論ではなく、わたしの事でありあなた個人の問題として指摘しているのである。
キリスト者とは、この罪やサタンの力から解放された者である。それだけに二度と奴隷のくびきにつながれてはならないのだ。自分の力は肉であって役に立たない。ただ御聖霊の助けを求めつつキリストと共に自分を神にささげる信仰で歩む時、勝利は主が与えて下さるのである。
「あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」
人の生き方には二つある。自分を「不義の武器として罪にささげる」生き方と「自分を義の武器として神にささげる」生き方である。神は後者の生き方を選べとすすめておられる。ところが世の人は一般的に二つの間違った考え方をしている。一つはクリスチャンになると束縛されると言い、二つは未信者である我々こそ自由である、と言うものだ。
世の人は本当に自由であろうか。ここ10年、毎年3万人以上の自殺者が象徴しているように、益々複雑な社会現象の出来事の中で不安、疑い、怒り、憎しみ、争いの波が荒れ狂っているではないか。どこに自由があるのだろう。聖書はこの世の人こそ不自由そのものであって束縛されていると語る。
まず罪によってである。すべての者が「罪のドレイ」(ヨハネ8:34)になっているとまで言い切る。
次に自己によってである。自分の思う通りなる事を自由と思っているがそれが全ての間違い、自己の欲望のドレイ(ローマ7:13)ではないかと語る。
最後にはサタンのわなの中にある(IIテモテ2:26)と、言う。これほどの醜悪なものをかかえ込んだままでどうして人生の命を輝かす事が出来ようかと。これは一般論ではなく、わたしの事でありあなた個人の問題として指摘しているのである。
キリスト者とは、この罪やサタンの力から解放された者である。それだけに二度と奴隷のくびきにつながれてはならないのだ。自分の力は肉であって役に立たない。ただ御聖霊の助けを求めつつキリストと共に自分を神にささげる信仰で歩む時、勝利は主が与えて下さるのである。
by oume-akebono
| 2009-03-29 17:49
| 週報メッセージ