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青梅あけぼのキリスト教会 omeakebono.exblog.jp

青梅あけぼのキリスト教会 日本バプテスト連盟 牧師 : 大谷唯信 副牧師 : 森元國文 〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3 ☎︎0428-76-0634


by oume-akebono
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3月15日  神の選びに応答せよ

(ヨハネの第一の手紙5:5)   大谷 唯信 牧師


「わたしがあなたがたを選んだのである。」


今や、神はあなたに語りかけておられる。聖書はただ聞いているだけならただの書物であり、ただの教訓であり文字づらである。何の力にも役にも立たない。

昔、イザヤは神の語りかけを聞いた。「わたしは誰をつかわそうか。誰が我々のために行くだろうか」と。イザヤはこれを聞き流さず受けて応えた。「ここにわたしがおります。わたしをおつかわし下さい」(イザヤ6:8)。ここからイザヤの人生は変革された。「神との出来事」となったのである。

この形は神との出来事としての原則であり今も同じである。応答する事によって語りかけられた御言葉の内に潜む深い内側の神の命に触れるのである。神の命の息が吹き込まれ「生きた者」とされたアダムと同じ事が起きた。イザヤは神の語りかけを言語学的に解釈したり神学的意味を深めようとしたのでもない。「わたしがここにおります。わたしをおつかわし下さい」と献身的応答であった。内側の命に触れた者がそうせざるを得なくなる共通の姿をここに見る。

長血の女にイェスは出会った時(マルコ5:30)「わたしに触れた者は誰か」と言われた。「こんなに多くの群衆が押し迫っていますのに」と弟子たちは困惑する。結局、多勢の中でイェスに触れた者は長血の女一人だけだったのである。押しかける者には祭司や律法学者等や知識人もいた事であろう。しかしイェスの内なる命に触れたのは長血の女一人であったのだ。押しかける多勢はイェスの外側に触れていただけで命には全く触れていないのだ。

神学校を始め連盟の我々諸教会もこんな事になってはいないかと危惧するのであるが、それだけに私達は聖書の「言葉遊び」ではなく信仰決断をもって主に応答し、内なる命に触れる者とさせていただこうではないか。
by oume-akebono | 2009-03-15 23:38 | 週報メッセージ