2007年 10月 21日
10月21日 神の啓示による
ローマ人への手紙 7:24~25) 大谷唯信牧師
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」
ここに啓示を得る一つの法則を見る。
心の中で戦う善と悪。「善をしようとする意思はあるのだが、それをする力がない」これは人間万人の持つ戦いではなかろうか。
「わたしの欲しない悪がこれを行い…」とパウロは自分の欲する意志とは関係なく、もっと強い悪の思いが働き自分を支配し、自分でもどうにもならない罪の働きを自分の中に見たのである。今迄の自分の華やかな人生も、深い学識や経験も、もはや何の役にも立たず、不安と恐れと絶望の闇に沈み込んでいく「死のからだ」になってしまっている自分を見た。否、示されたのだ。ダビデの言う「死の陰の谷」である。ここに神からの啓示、キリストとの出会いが与えられる法則を見るのである。
パウロはその瞬間に「私達のイエス・キリストによって、神は感謝すべきかな!」と叫んでいる。上からの啓示を得たのである。死に直結するほどの闇の中で示される啓示の法則である。イザヤも神の臨在に触れた時、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と叫んだ。罪の許しと神の問いに対して「ここにわたしがおります。わたしをおつかわし下さい」と神への応答の人生が始まるのである。能力でも知識でもない。啓示である。
長血の女も病の絶望があったからこそイエスに触れることができた。人々はどんなに押し寄せても触れてはいなかった。ただ自分に絶望した女だけが啓示(救い)を得たことを覚えよう。
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」
ここに啓示を得る一つの法則を見る。
心の中で戦う善と悪。「善をしようとする意思はあるのだが、それをする力がない」これは人間万人の持つ戦いではなかろうか。
「わたしの欲しない悪がこれを行い…」とパウロは自分の欲する意志とは関係なく、もっと強い悪の思いが働き自分を支配し、自分でもどうにもならない罪の働きを自分の中に見たのである。今迄の自分の華やかな人生も、深い学識や経験も、もはや何の役にも立たず、不安と恐れと絶望の闇に沈み込んでいく「死のからだ」になってしまっている自分を見た。否、示されたのだ。ダビデの言う「死の陰の谷」である。ここに神からの啓示、キリストとの出会いが与えられる法則を見るのである。
パウロはその瞬間に「私達のイエス・キリストによって、神は感謝すべきかな!」と叫んでいる。上からの啓示を得たのである。死に直結するほどの闇の中で示される啓示の法則である。イザヤも神の臨在に触れた時、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ」と叫んだ。罪の許しと神の問いに対して「ここにわたしがおります。わたしをおつかわし下さい」と神への応答の人生が始まるのである。能力でも知識でもない。啓示である。
長血の女も病の絶望があったからこそイエスに触れることができた。人々はどんなに押し寄せても触れてはいなかった。ただ自分に絶望した女だけが啓示(救い)を得たことを覚えよう。
by oume-akebono
| 2007-10-21 00:51
| 週報メッセージ