2007年 09月 02日
9月2日 思いはハンドル
(ローマ人への手紙12:2) 大谷 唯信 牧師
「むしろ、心を新たにすることによって造りかえられ、」
「心を新たに」と言ってもどういう事なのか漠然としている。
この場合、心とは「思い」(考え、気持ち、等の意味を含む)である。
「考え」となると単なる知識となりやすい。「気持ち」となると感情的、情緒的になりやすい。
「思い」は外から来るあらゆる知識、状況や内から来る感情等すべてを統合しての思いである。
即ち、御言葉や教理を頭だけで知識として理解しているのではなく、又、感情的にエキサイトして異様に興奮を求めたり、又、逆に落ち込んでしまって無気力なまま暗い中を漂っているのでもない。
これらのあらゆるものを心で受けとめて、それによって自分の中から起るいろいろな思いの中からどれを自分の思いとするかを判断し造り出す事である。
何もかも流れにまかせて自分を手放してしまうのは危険である。思いは他人まかせではなく自分で選び自分で持つのである。思いは自分で支配しなければいけない。そのように神様からまかされているからである。
神に委ねると言う事は自分を手放して受身になる事ではない。思いは自分の主体性で自分の意志的決断をもって選び取り方向を決め自分の「思い」とし、それをしっかりと握りしめることが大切なのだ。
しかし、どんなに救われて内なるものは新しくされても自分の「思い」が一向に変わらず昔のままであるならば内なら生命は外に出ることが出来ず旧態依然とした肉もの行動パターンが出る事になる。
「思い」は常に御言葉に立ち、何が神の御旨であるか、何が善で神に喜ばれるか吟味し御言葉に立つ思いになった時、神の力が発揮されるのである。
「むしろ、心を新たにすることによって造りかえられ、」
「心を新たに」と言ってもどういう事なのか漠然としている。
この場合、心とは「思い」(考え、気持ち、等の意味を含む)である。
「考え」となると単なる知識となりやすい。「気持ち」となると感情的、情緒的になりやすい。
「思い」は外から来るあらゆる知識、状況や内から来る感情等すべてを統合しての思いである。
即ち、御言葉や教理を頭だけで知識として理解しているのではなく、又、感情的にエキサイトして異様に興奮を求めたり、又、逆に落ち込んでしまって無気力なまま暗い中を漂っているのでもない。
これらのあらゆるものを心で受けとめて、それによって自分の中から起るいろいろな思いの中からどれを自分の思いとするかを判断し造り出す事である。
何もかも流れにまかせて自分を手放してしまうのは危険である。思いは他人まかせではなく自分で選び自分で持つのである。思いは自分で支配しなければいけない。そのように神様からまかされているからである。
神に委ねると言う事は自分を手放して受身になる事ではない。思いは自分の主体性で自分の意志的決断をもって選び取り方向を決め自分の「思い」とし、それをしっかりと握りしめることが大切なのだ。
しかし、どんなに救われて内なるものは新しくされても自分の「思い」が一向に変わらず昔のままであるならば内なら生命は外に出ることが出来ず旧態依然とした肉もの行動パターンが出る事になる。
「思い」は常に御言葉に立ち、何が神の御旨であるか、何が善で神に喜ばれるか吟味し御言葉に立つ思いになった時、神の力が発揮されるのである。
by oume-akebono
| 2007-09-02 01:00
| 週報メッセージ