10月29日 リバイバルの入口
(コリント人への第二の手紙 5章17節) 大谷唯信牧師
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
このように誰でもキリストにつながるならば過去の古い自分は去り全く新しい命、キリストの命とされて生きられるのである。どうしたらそのようになるのだろうか。それにはまず自己を中心に生きてきた罪(エゴ)を悔いてイエス・キリストを救い主として信じ(受け入れ)、バプテスマを受ける。ここから新しい生活が始まるのである。「誰でもキリストにあるならば新しく造られたものである。」どんな過去でも罪でも関係なくその人は新しく造られたものとされる。「そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒行伝2:38)と約束されているのである。
即ち、わたし達がイエスを信じる信仰をもつ時、常にそれを支え導く聖霊が賜物として注がれる事になっているのだ。「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(使徒行伝2:39)
パウロはイエスを迫害する者であったがイエスに出会い回心しその直後聖霊の注ぎによって全く新しくされ伝道者として用いられたのである。ペテロや弟子達もイエスの天に帰られた後は恐れと不安の中で動けなかった状態にあったが聖霊が約束どおり注がれてからは、周りも驚く程に堂々と説教し主の証人として立ったのである。
その力の秘訣は何だったのだろうか。それはただ一つ、聖霊であろう。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて・・・地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1:8)である。しかしここで大切な事はどのようにして待ち望んでいたかではなかろうか。パウロも弟子達も共通しているのは、「祈っていた」事だ。「共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」のである。祈りによって生まれる主の臨在感の中にいた事であったのだ。小さな祈りの火をともしていたのである。