9月24日 聖霊によって日々新たに

(ローマ人への手紙 12章2節)    大谷唯信牧師



「…心を新たにすることによって、造りかえられ、…」



どのような素晴らしい信仰を得ていても、日々新たに造りかえられることを失ったならば、その信仰は観念だけとなり、死んだものとなる。そこには命も力もない。たとえ深い人生観を語り、学識に富んだ言葉であっても「やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである」(コリント人への第一の手紙131)。魂を救う力はない。ということは、ベテランのクリスチャンであっても、説教者であっても、失格者になり得るわけだ。



この世の肉の事であるなら、誰にでも目で見え、手で触れることができるので分かりやすい。しかし、霊の事は霊の心が開かれていなければ、見えないのである。勿論、霊の命を持っている者には、相手が霊の命を持っているか否かはすぐに分かる。荒野のヨハネが群衆の中に居られるイエスを見て、一瞬にして「見よ、神の小羊」と叫んだのに対し、学者やパリサイ人達には、イエスの中に霊なる神の命が見えなかったのだ。



そういう者たちが指導者になっていたから、イエスは「盲人が盲人の手引きをする」(マタイによる福音書1514)と言われたのである。内面の問題は実に観念的になりやすい。神学で塗り固める余り、本来の自分の命が消えていることに気付かない。奉仕や活動でも同じことが起こる。



勿論、神学も奉仕も必要なのだ。なくてはならない大切なものである。だが、これらは永遠の命を得るための手段でしかない。ではこの手段を通して何を得るのか。目の前におられる生ける主と出会い、永遠の命をいただき、復活の主と出会った者として、ペテロ達のように「主の証人」として立ち上がることである。



ペテロ達は神学や律法を論じたのではない。人々は彼らを見て「大胆な話しぶりを見、同時に二人が無学なただの人達である事を知って不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者である事を認め…」(使徒行伝413)と聖書は伝えている。彼らは論じたのではない。「イエスの名によって立ちて歩め!」と主を証したのだ。これこそ、日々聖霊によって新たにされている教会の姿なのだ。






























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by oume-akebono | 2017-09-24 17:55 | 週報メッセージ