8月27日 私たちは生ける教会

(ヨハネによる福音書 15章5節)   大谷唯信牧師



「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」



私たちの「教会の祈り」は最初が「常にまず自分の内側を整える」である。内側を整えるとはまず主とつながることだ。そうすれば神の国(支配)の中にいることになる。「自分は今、キリストにつながっていますか?」と自分に問いかけてみよう。その時、自分の姿勢の現実に気づかされる。



その思いの中で、「私はつながっています。」と信仰で宣言し、同時に御聖霊の働きによって、神の御臨在に包まれている平安を信仰で味わいつつ、主を見上げるのである。すべてを信仰の出来事にするのだ。現実がどんなに苦しく、自分の期待と違っていても、不平はやめて「私は主につながっています」と宣言していくのである。



エジプトを出たイスラエル人の、40年間の荒野の旅は、正に不平不満、不信仰の旅であった。それは現在の不安なこの世の姿でもある。不信仰には必ず恐れが伴う。神はモーセを通し民に語る。「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。…主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。(出エジプト記1413



不信仰はどうしても困難を通して神を見る。信仰は神を通して困難を見る。信仰は神の側、御国の中に居らせ、対岸の火事を見るように、出来事を見させてくださる。この世に居りながら、嵐の中であっても、神の支配の中で平安に満たされているのである。それは、「わたしは主につながっています」との信仰宣言によって与えられる恵みである。



その与えられた平安、知恵、希望が世の人から見ると不思議に見え、結果的に「世の光、地の塩」としての存在にされていくのである。しかし律法もそうであったように、福音も聖書の言葉も、生きた信仰によって霊の命を吹き込まなければ、単なる文字となり、「絵に描いた餅」になってしまう。感謝なことに私たちは生ける教会であることを覚えよう。




















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by oume-akebono | 2017-08-27 14:21 | 週報メッセージ