1月29日  神と取組むとは

(マルコによる福音書 10:17-22)   大谷唯信牧師



「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております。」



莫大な資産を持つ「富める青年」がイエスに応えた言葉である。「それらの事」とは「殺すな、姦淫するな、盗むな、父と母を敬え」。十戒の後半部分であり、当時のユダヤ人ならだれもが知っている、ごく常識的な戒めであった。青年は先に一つの質問をイエスにしたのだ。


それは社会問題でも、平和問題でもない。単刀直入に「永遠の命」の事であった。しかも「それを受けるには何をしたら」と真正面からの取り組みである。その態度、その問い、正に非の打ちどころのない立派さだ。その言動からは、小さい時から恵まれた環境で、高い教育を受け育ったことが窺われる。ところがこの青年の反応は、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」であった。即ち、その腹は「そんなことは、前々からわかっていますよ。他に何かないんですか!」である。


知識としての記憶だけなら、当然「それは知っています、わかっていますよ」となるだろう。自称完成してしまうのだ。知識教育の問題点ともいえる。だからまたすぐに新しい教訓が欲しくなる。この時、イエスがそのような教訓を与えたなら、彼は喜んで「わかりました!」と言うであろう。ここに私達や教会の、成長出来ない原因があるのだ。


イエスは何でもわかってしまうこの青年に、敢えて絶対にできないような課題として、「あなたに足りないことが一つある」と提案した。彼はその内容を聞くと、「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」。ということは初めて彼は本気で聞いたのだ。しかし、取り組まず立ち去った。自分にはとてもできないと思ったからだ。


イエスは全財産を人に施せ、と言おうとしたのではない。「あなたの足りないところを一つ」と言われたのだ。どんなに立派な人間でも、足りないところは一つや二つはあるであろう。その足りないこと一つが自分の殻を破り、救いを得させ、深める入口だと、教えておられるのだ。御言葉の先に自分の足りない所を照らし、その姿、その原因を正直に見る時、神と取組むことになるのである。
























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by oume-akebono | 2017-02-01 18:39 | 週報メッセージ