1月8日  まず自分を捨て

(マタイ 16:24)       大谷唯信牧師


「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」



「人のふり見て我がふり直せ」との昔からのことわざがある。「反面教師」との言葉もある。又「人の上見て我が身を思え」もある。どのような人、状況にあっても、ただ眺めているだけでなく自分に照らして自分と取組めと言う事であろう。そうすればすべての人から尊い学びを受けることが出来るのである。「我以外皆我が師」と言う事になる。


人生は傍観者であってはならない。御言葉を教訓的に受け取ってのクリスチャン(信仰生活)であってはならない。どんなに一所懸命で真面目であっても何一つ変らないからである。
信仰生活を何年もしているのに心の内に平安もなく喜びも湧いて来ず、常に他の人に励まされ支えられなければ信仰による救いの確信がないという方は自分の心を正直に見てその問題点を発見する必要がある。どこか勘違いしている点があるはずである。どんなに熱心でもピントがずれたままの熱心では実を結ばないからだ。


あの富める青年は人前でイエスに走りよりひざまずき「永遠の命を得るためには何をしたら良いのですか」とたずねた。正に謙虚で真面目な好青年であろう。しかしイエスが律法の教えを説かれた時、「先生、それらの事はみな小さい時から守っております」とさわやか答え他に何かありますか、教えて下さいと言う態度であった。パウロもイエスに出会う前は同じ自称完成者であったのだ。ユダヤ人全部がそうであった。パウロはキリストの光の中で吟味した時、初めて自分の意志や思いに関係なく「わたしは罪の奴隷、罪人の頭と叫ぶ程目が開かれたのであった。どうであろうか。わたし達もパウロと同じく「わたしは罪人の頭である」と言えるべきではなかろうか。信仰の喜びは自分の罪の深さの自覚に比例するのである。自分の存在そのものが罪の塊と覚えた時、一切の罪許されたりとの確信が湧き上がるのだ。























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by oume-akebono | 2017-01-21 15:51 | 週報メッセージ