12月18日  信仰成長の足取り(1)

(コロサイ人への手紙 2:12)   大谷唯信牧師


「あなたがたはバプテスマを受けてキリストと共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」




救われた信仰の根拠は、自分の中にではなくキリストにあり神にある。決して自分ではない。しかし、やがて信仰の弱さを感じると弱い自分をさらに見て焦り、強くするために祈り、御言葉を読み、また自分を見る。一時は強くなったようであるが、少し日がたつとまた弱く不安になり、強くならなければと自分に鞭を打つ、…この繰り返しのカラ回りに苦しむことになる。いつの間にか自分を見て評価し、自分の力で強くなろうとしてしまう。真面目な人ほど責任感が強く自分で何とかしなければと思う傾向があるからだ。


パウロもそうであった。ローマ6章は、彼の受けた完全な救いについての啓示である。これは客観的事実である。美しい富士山を景色として見ているようなものだ。実際に登ってみると道は険しく、美しい富士山は見えず瓦礫の山々である。自分の足もとから、一歩一歩の足の運びから、現実のこととして「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」「わたしの中に悪が入り込んでいる罪の法則を見る」。そこで初めて自分に全く絶望し、自分を見放し、「わたしは何というみじめな人間か。誰がこの死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」と主を見上げ、十字架上のイエスが「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで神に自分のすべてを託したように、パウロも神に託したのだ。その瞬間に「わたし達の主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」と、主と一つにされたのである。


ローマ7章は救いの主観的事実なのである。この罪の自覚は人によって異なるだろうが省略は出来ない。6章で救いの客観的事実を見せ、7章で主観的事実となり、恵みの8章に入る。肉が霊へ導かれるためにはローマ6章から8章は常に行き来する。すべてが聖霊の働きである。
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by oume-akebono | 2016-12-18 14:00 | 週報メッセージ