2016年 04月 10日
2016年4月10日 自分を捨て霊的信仰を求めよ
(ペテロの第一の手紙2:1-2) 大谷唯信牧師
「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。 」
これはペテロの言葉である。イエスを裏切ったペテロである。イエスの十字架の直前、最後の晩餐となった夕食の時、ユダの裏切りが発覚し一同衝撃の思いの中、ペテロは思い余ってか「主よ、あなたのためには命も捨てます」と宣言するのである。しかし「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と言われ、その通りになってしまった。誰がそれを攻める事が出来ようか。皆、動揺し同じ気持ちがあったに違いない。ペテロはイエスを愛していた。愛するが故に必死に自分の気持ちを正直に告白したのであろう。
しかし、現実に直面すると余りにも弱かった。これが私達の現実でもあろう。
イエスは以前に「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)と言われた。しかしどんなに必死になっても出来ないのである。そのペテロが立ち直ってペテロの手紙を書き記しているのだ。その一行一行には、彼の失敗があったからこその人間味あふれる暖かい愛情と、絶大な深いイエスの愛に生かされている無上の喜びが伝わって来るではないか。一体何がそうさせたのか。私達はそれを知らなければならない。
それにはこの世にある教育、訓練ではない。銀や金のような朽ちる物によったのでもない。「それはキリストの尊い血によったのであり天地の造られる前から知られていた事である」とペテロは語る。その命に触れたのだ。その命は、今ではそれを信じた者には誰にでも与えられると主は語る。これこそ「聖霊」である。聖霊の助けによったのだ。ペテロは上の御言葉を述べた、聖霊の助けの中でこれを実践する。即ち、自分を捨てて聖霊の助けを求め主に従う信仰である。その信仰と望みは、自分ではなく「神にかかっている」(1ペテロ1:21)のだ。今年は聖霊の助けによって霊的信仰を求めようではないか。
「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。 」
これはペテロの言葉である。イエスを裏切ったペテロである。イエスの十字架の直前、最後の晩餐となった夕食の時、ユダの裏切りが発覚し一同衝撃の思いの中、ペテロは思い余ってか「主よ、あなたのためには命も捨てます」と宣言するのである。しかし「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と言われ、その通りになってしまった。誰がそれを攻める事が出来ようか。皆、動揺し同じ気持ちがあったに違いない。ペテロはイエスを愛していた。愛するが故に必死に自分の気持ちを正直に告白したのであろう。
しかし、現実に直面すると余りにも弱かった。これが私達の現実でもあろう。
イエスは以前に「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)と言われた。しかしどんなに必死になっても出来ないのである。そのペテロが立ち直ってペテロの手紙を書き記しているのだ。その一行一行には、彼の失敗があったからこその人間味あふれる暖かい愛情と、絶大な深いイエスの愛に生かされている無上の喜びが伝わって来るではないか。一体何がそうさせたのか。私達はそれを知らなければならない。
それにはこの世にある教育、訓練ではない。銀や金のような朽ちる物によったのでもない。「それはキリストの尊い血によったのであり天地の造られる前から知られていた事である」とペテロは語る。その命に触れたのだ。その命は、今ではそれを信じた者には誰にでも与えられると主は語る。これこそ「聖霊」である。聖霊の助けによったのだ。ペテロは上の御言葉を述べた、聖霊の助けの中でこれを実践する。即ち、自分を捨てて聖霊の助けを求め主に従う信仰である。その信仰と望みは、自分ではなく「神にかかっている」(1ペテロ1:21)のだ。今年は聖霊の助けによって霊的信仰を求めようではないか。
by oume-akebono
| 2016-04-10 15:31
| 週報メッセージ