2016年 03月 13日
2016年3月13日 神の愛
(ヨハネの第1の手紙 4:8-10) 大谷唯信牧師
「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。」
人間は何故罪を犯すのか。毎日報道される
いろいろな犯罪、事件は年々老若男女、多種多様であり、実に凄惨なものが多いように思う。昔と比べ教育の場もあり、経済的にもあらゆる面で豊かになっている筈である。学識経験もあり社会的地位もあり金銭的にも恵まれている者も、全て関係ないかのように問題を起こしているのが現実である。
法律と刑罰の対処で間に合うのだろうか。
勿論、犯罪になる以前の教育、環境の整備、精神医学、心理学、行動科学等の専門家による分析、配慮も行われている事であろう。しかしこれらで本当に解決につながるのであろうか。
聖書によるならば人間が罪を犯すのはそんな持って回った言い方はしていない。ただ一言、それは人間が罪人だからであると断定している。教育、心理学、精神分析等の表層的な問題ではないのだ。
もっと人間の本質、根源的な存在そのものにメスを入れ取り組ませるのである。それは余りにも深く不思議で人間の知恵や科学では全て手の届かないものなのだ。罪とは生命と同じく具体的で日常的なものであるがその根源は神の霊的領域のものである。人間の浅知恵では全く歯が立たないのだ。いつまで人間は自分の分をわきまえないのだろうか。この姿こそ罪そのものから出ているのであるが。
神からの啓示である御言葉は語る。
「すべての人間は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(ロマ3:23)
「罪の値は死である」
「義人はいない、ひとりもいない」
「すべての人は迷い出て、無益なものになっている」(ロマ3:10,12)
「すべての人間は神の前に義とせられない」(ロマ3:20)
これらの御言葉が現す罪の根源とは何か。それは神を信じない事、神を知らない事、神を無視している事である。この世のどんな重罪よりも重い罪がこれなのである。すべての罪は重いここから出ているのである。このままでは、全人類が滅びる事になる。しかし神はこの罪をわたし達に負わせるのではなく御自身の独り子イエスに負わせ救いの道となって下さった。これによって生きるようにして下さったのである。
これが神の愛である。
「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。」
人間は何故罪を犯すのか。毎日報道される
いろいろな犯罪、事件は年々老若男女、多種多様であり、実に凄惨なものが多いように思う。昔と比べ教育の場もあり、経済的にもあらゆる面で豊かになっている筈である。学識経験もあり社会的地位もあり金銭的にも恵まれている者も、全て関係ないかのように問題を起こしているのが現実である。
法律と刑罰の対処で間に合うのだろうか。
勿論、犯罪になる以前の教育、環境の整備、精神医学、心理学、行動科学等の専門家による分析、配慮も行われている事であろう。しかしこれらで本当に解決につながるのであろうか。
聖書によるならば人間が罪を犯すのはそんな持って回った言い方はしていない。ただ一言、それは人間が罪人だからであると断定している。教育、心理学、精神分析等の表層的な問題ではないのだ。
もっと人間の本質、根源的な存在そのものにメスを入れ取り組ませるのである。それは余りにも深く不思議で人間の知恵や科学では全て手の届かないものなのだ。罪とは生命と同じく具体的で日常的なものであるがその根源は神の霊的領域のものである。人間の浅知恵では全く歯が立たないのだ。いつまで人間は自分の分をわきまえないのだろうか。この姿こそ罪そのものから出ているのであるが。
神からの啓示である御言葉は語る。
「すべての人間は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(ロマ3:23)
「罪の値は死である」
「義人はいない、ひとりもいない」
「すべての人は迷い出て、無益なものになっている」(ロマ3:10,12)
「すべての人間は神の前に義とせられない」(ロマ3:20)
これらの御言葉が現す罪の根源とは何か。それは神を信じない事、神を知らない事、神を無視している事である。この世のどんな重罪よりも重い罪がこれなのである。すべての罪は重いここから出ているのである。このままでは、全人類が滅びる事になる。しかし神はこの罪をわたし達に負わせるのではなく御自身の独り子イエスに負わせ救いの道となって下さった。これによって生きるようにして下さったのである。
これが神の愛である。
by oume-akebono
| 2016-03-13 03:59
| 週報メッセージ