2014年 09月 21日
9月21日 神の愛に生きよう
(ヨハネ15:12) 大谷唯信牧師
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」
神がわたし達に示された愛の倫理観は他に例を見ない程とてつもなく高い。前人未到の最高峰である。神は愛である。しかし神を愛さないとこの愛はわからない。愛は神から出たものであるからだ。ではそれを得るにはどうしたよいのだろう。心が求めていてもその道も登り口すらわからない。そこで神の方から動かれた。「わたし達が神を愛したのではなく、神がわたし達を愛して下さって、わたし達の罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(Iヨハネ5:10)と。
神はわたし達に自己訓練をしてここまで登って来なさいと言われるのではない。「そのひとり子を世につかわし」御子自身が道となり命となってわたし達と共に歩いて下さるのである。しかもこの救いはすでに完成されているのだ。これを得るには自分の力で見い出すのではなくこの御子イェスを受け入れ信じる信仰によってのみ与えられる大いなる恵みなのである。努力や力でつかみ取るものではない。上から注がれそれを信じ受け入れる信仰によって神の世界への一歩が始まるのである。
人は神を離れて以来、自己中心となり今や個人主義社会となった。個人は大切だが個人主義は自分なりの自己に生きるしかない。しかし人は本来、喜びも悲しみも共に分け合って生きる存在、即ち愛に生きるように造られているのだ。自分本位の愛ではない。神の愛である。イェスの「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」なのである。
自己愛は相手の不足を責め合い思うようにならず結局はストレスばかりとなる。犯罪、自殺、病気、戦争等々、生きる中心軸を自分にしているからである。これを罪と言う。「罪の価は死である」と聖書は語る。もうそろそろ私達は気づくべきではなかろうか。内なる小さな声に正直に耳を傾け神の語りかけに応答し神の愛に生きようではないか。
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」
神がわたし達に示された愛の倫理観は他に例を見ない程とてつもなく高い。前人未到の最高峰である。神は愛である。しかし神を愛さないとこの愛はわからない。愛は神から出たものであるからだ。ではそれを得るにはどうしたよいのだろう。心が求めていてもその道も登り口すらわからない。そこで神の方から動かれた。「わたし達が神を愛したのではなく、神がわたし達を愛して下さって、わたし達の罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(Iヨハネ5:10)と。
神はわたし達に自己訓練をしてここまで登って来なさいと言われるのではない。「そのひとり子を世につかわし」御子自身が道となり命となってわたし達と共に歩いて下さるのである。しかもこの救いはすでに完成されているのだ。これを得るには自分の力で見い出すのではなくこの御子イェスを受け入れ信じる信仰によってのみ与えられる大いなる恵みなのである。努力や力でつかみ取るものではない。上から注がれそれを信じ受け入れる信仰によって神の世界への一歩が始まるのである。
人は神を離れて以来、自己中心となり今や個人主義社会となった。個人は大切だが個人主義は自分なりの自己に生きるしかない。しかし人は本来、喜びも悲しみも共に分け合って生きる存在、即ち愛に生きるように造られているのだ。自分本位の愛ではない。神の愛である。イェスの「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」なのである。
自己愛は相手の不足を責め合い思うようにならず結局はストレスばかりとなる。犯罪、自殺、病気、戦争等々、生きる中心軸を自分にしているからである。これを罪と言う。「罪の価は死である」と聖書は語る。もうそろそろ私達は気づくべきではなかろうか。内なる小さな声に正直に耳を傾け神の語りかけに応答し神の愛に生きようではないか。
by oume-akebono
| 2014-09-21 20:00
| 週報メッセージ