2014年 12月 14日
12月14日 クリスマスは霊的出来事
(マタイによる福音書1:21) 大谷唯信牧師
「その名をイェスと名付けなさい。彼はおのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」
マリヤの婚約者ヨセフに天使が語ったのである。「心配しないでマリヤを妻として迎えよ。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである」と。
神からの出来事はわたし達の思いを超えて先行している時が多い。自分の理解を超えているのだ.ゆえに信仰によって受けるしかないと言える。神の出来事はどんなに考えても答えは出ない。恐れ、不安が増すだけであろう。しかし、信仰の出来事として受けるなら驚くほどの道が開けて来るのである。
聖書は人をからだ、心、霊の三つの部分の総合体であり、肉的存在と同時に霊的存在として捕え、特にからだ、心の見える部分は氷山のように水面下で見えない霊の部分によって支えられ生かされている事として示している。即ち、人間は肉的存在、心理的存在としてよりも霊的存在として捕えかかわっていかなければ人を生かすことは出来ないのである。今日、精神的に病んでいる人、苦しんでいる方が多いのもこの一番土台となるはずの霊に対する手当がわからないまま育て、教育し訓練しているからである。
イェスは「人はパンのみで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われている。人を生かす「まことの飲み物」、「まことの食物」を得よと言われる。この意味は深い。強いからだ、優秀な頭脳があってもそれを支える普遍的な無限に拡がる神の叡智と直接つながる霊が仮死状態なのである。イェスは明確に「人を生かすのは霊であって肉は何の役に立たない」(ヨハネ6:63)とも言われている。
クリスマスの出来事は昔のおとぎ話ではない。歴史的霊的出来事なのである。「イェスは民をもろもろの罪から救う者」とある。もろもろの罪とは法的な罪ではない。霊的な罪、人間としての良心、本心からのずれと言った方がわかるかも知れない。そろそろ自分の霊に生ける命を注ぐ時ではないだろうか。
by oume-akebono
| 2014-12-14 20:00
| 週報メッセージ