2015年 01月 04日
1月4日 今年は信仰の網を打とう
(ヨハネによる福音書3:3) 大谷唯信牧師
「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」
どうして人は新しく生まれなければいけないのか。神の国とはどういう国なのか。
聖書をはじめて読むとわからない事ばかりと思うのではなかろうか。それは自分の知っている,世界観、人間、罪、命、その生き方、在り方等々がちがい過ぎると思えるからだと思う。しかも、真理、自由、命とか「生きるとは」等の言葉が出て来ると何かこむづかしい理屈や理論ばかりで自分の毎日の生活には何ら関係ない、と思えてしまうことはなかろうか。
毎日喧嘩や遊びに夢中だった中学頃迄の自分は、愛しあうとは、生きるとは等、問題意識として明確にはなっていなかった。「人生とはネ!」と言われただけで、そんな事考えた事も思った事もなかったので「エラク難しい高尚な事を言っているなあ」位で、ほとんど無関心と反発と言いようのない妙な劣等感を感じていた。
高校になってバプテスマを受けてから聖書は難しい理屈や理論ではなくなった。本気でぶつかったからである。聖書は自分の日々の現実の心の姿を見せ、本来あるべき姿、そこへ到達する道筋等の具体的な命の営み、生活そのものを示し導いて下さる事がわかってきたのである。それは教訓、教えだけではなく、自分の現実の心と重ね、照らし合わせ自分の生身の出来事として聖書の言葉と取り組む。共感できる事はそこで留まらず、自分の思いとなるまで実行して見る。納得できない事もそこで留まらず、納得できるまで信じ従って見るのである。自分の損得、自分の好き嫌いは横に置き、ペテロのように「主よ、夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」(ルカによる福音書5:5)である。現実の厳しさに押しつぶされている時はこれを試すチャンスだ。
神は愛する者に必ずこのチャンスを与えて下さる。「しかし、お言葉ですから」の一歩はすでに信仰の出来事に変化している。「新しくされている」のである。今年は「信仰の網を打とう」ではないか。
by oume-akebono
| 2015-01-04 20:00
| 週報メッセージ