2013年 07月 01日
6月16日 腰痛の痛みに感謝
(コリントII 12:7,9) 大谷 唯信 牧師
「高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。主の力は弱い所に完全にあらわれる」
この度わたしは腰痛なるものを体験した。受難週を迎えた3月25日月曜日の朝5時、ベッドから起き立った瞬間、下半身に激痛が走り歩くこともベッドに戻り座る事も出来ず、余りの痛さで脂汗で貧血。呼吸も苦しくなり正に受難週となったわけだ。イースターになってもわたしのイースターは来ず、まだまだ激痛の嵐の真只中であった。それから過ぎる事2ヶ月半。完治ではないが痛みも去りゆっくりなら歩けるし車にも乗れるようになった。今では一歩一歩ゆっくり足を踏みしめ歩けるこの一歩が実に新鮮で嬉しいのである。
神様はこの時期に素晴らしい恵みを与えて下さった。それは初めの1ヶ月は激痛の嵐に揉みに揉まれ翻弄され我慢等役に立たず体も心も全くの弱さそのものの醜態をさらし無抵抗で心の中では悲鳴を上げているだけであった。ところがそこで変化が起こった。体の痛みは激しく続いているのだがその悲鳴が祈りとなり主に向かっての魂の叫びとなり自分の全存在をかけて主に依り頼むようになった。これがクリスチャンの特権であると思う。
足の指がかすかに動いても、ふとんの布がかすかに触っても激痛が走るとなるともうお手上げである。誰でも思わず必死に主に依り頼むではなかろうか。痛みの中でイェス様の十字架の痛みを思う。勿論比べようはないのであるが自分の一寸した事でもこれ程の痛みがあるのだからイェス様の痛みはどれほどのものかと自分の痛みを通してイェス様の苦しみを想い申し訳なさと感謝でいっぱいになった。すると弱く吹き飛ばされそうな体の中に静かで平安に満ち、神の愛に感動している自分、何の恐れもなく堂々としている自分がいた。これは神への愛に生かされていると言う確信、それは自分が弱くなるほど強くされていく。
主が共におられる。この2ヶ月半は本当に恵みの時であった。わたしの実感としてはこの期間・不思議な事に1週間位にしか感じないのである。皆さんには多大な迷惑をかけているのにである。教会の方々の祈りと働きに心から感謝している。あらためて教会の力を見させていただいた。これまた感謝である。
「高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。主の力は弱い所に完全にあらわれる」
この度わたしは腰痛なるものを体験した。受難週を迎えた3月25日月曜日の朝5時、ベッドから起き立った瞬間、下半身に激痛が走り歩くこともベッドに戻り座る事も出来ず、余りの痛さで脂汗で貧血。呼吸も苦しくなり正に受難週となったわけだ。イースターになってもわたしのイースターは来ず、まだまだ激痛の嵐の真只中であった。それから過ぎる事2ヶ月半。完治ではないが痛みも去りゆっくりなら歩けるし車にも乗れるようになった。今では一歩一歩ゆっくり足を踏みしめ歩けるこの一歩が実に新鮮で嬉しいのである。
神様はこの時期に素晴らしい恵みを与えて下さった。それは初めの1ヶ月は激痛の嵐に揉みに揉まれ翻弄され我慢等役に立たず体も心も全くの弱さそのものの醜態をさらし無抵抗で心の中では悲鳴を上げているだけであった。ところがそこで変化が起こった。体の痛みは激しく続いているのだがその悲鳴が祈りとなり主に向かっての魂の叫びとなり自分の全存在をかけて主に依り頼むようになった。これがクリスチャンの特権であると思う。
足の指がかすかに動いても、ふとんの布がかすかに触っても激痛が走るとなるともうお手上げである。誰でも思わず必死に主に依り頼むではなかろうか。痛みの中でイェス様の十字架の痛みを思う。勿論比べようはないのであるが自分の一寸した事でもこれ程の痛みがあるのだからイェス様の痛みはどれほどのものかと自分の痛みを通してイェス様の苦しみを想い申し訳なさと感謝でいっぱいになった。すると弱く吹き飛ばされそうな体の中に静かで平安に満ち、神の愛に感動している自分、何の恐れもなく堂々としている自分がいた。これは神への愛に生かされていると言う確信、それは自分が弱くなるほど強くされていく。
主が共におられる。この2ヶ月半は本当に恵みの時であった。わたしの実感としてはこの期間・不思議な事に1週間位にしか感じないのである。皆さんには多大な迷惑をかけているのにである。教会の方々の祈りと働きに心から感謝している。あらためて教会の力を見させていただいた。これまた感謝である。
by oume-akebono
| 2013-07-01 12:18
| 週報メッセージ