2013年 06月 03日
4月14日 神がまず愛して下さった
(ヨハネI 4:7,19) 大谷 唯信 牧師
「わたしたちは互に愛し合おうではないか。わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。神は愛である。」
神はわたし達人類のために神御自身をイェス・キリストとしてこの世の歴史的事実の中に姿を現わして下さった。神が愛である事、イェスの語る教えの数々、その行い、人々への接する態度、十字架の死に至るすべての歩み等によって神が愛である事、全人類を愛しておられる事、そしてキリスト御自身が神である事を現わして下さったのである。即ち私達に単なる理想論ではなく実際に私達と共に生きておられる神を現わし、又、人間としての本来の生き方、さらに真実の愛、本当の許し、永遠の命、等々、この世がわかっているようで見失っているものを示して下さったのである。
キリストは天に上げられ終わったのではない。弟子達を置き去りにされたのでもない。約束通り今度はキリスト御自身が御聖霊となって来られ、弟子達の内なる命となり、これをキリストの教会として建て上げ、キリストの権威と使命を継承させ今も導いて下さっておられるのである。
教会は子供の成長と同じく日毎に変化し成長していくものだ。教会はキリストのからだとしての神の命が与えられているからである。神の命は神の愛そのものである。
「わたし達が愛し合うのは、神がまずわたし達を愛してくださったからである」とあるように愛の根拠は自分ではなく神なのである。即ちキリストの十字架にあるのだ。
世の人々はこれを知らず一切の根拠を自分に置く。だから問題が起きるとすぐ力が尽きる。又、どんなに善き事でも愛しても自分が根拠であるからエゴを脱することが出来ない。人間を駄目に不自由にしているのはこのエゴである。しかし、世の人はエゴが発揮できた時、自由を感じ生きがいを感じる。エゴが通らないと悲劇のヒーローになってしまう。今の世の政治、経済、社会をこの観点から見るとあらゆる問題の原因が見えて来る。「神がまず愛して下さった」ここにもう一度立とうではないか。
「わたしたちは互に愛し合おうではないか。わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。神は愛である。」
神はわたし達人類のために神御自身をイェス・キリストとしてこの世の歴史的事実の中に姿を現わして下さった。神が愛である事、イェスの語る教えの数々、その行い、人々への接する態度、十字架の死に至るすべての歩み等によって神が愛である事、全人類を愛しておられる事、そしてキリスト御自身が神である事を現わして下さったのである。即ち私達に単なる理想論ではなく実際に私達と共に生きておられる神を現わし、又、人間としての本来の生き方、さらに真実の愛、本当の許し、永遠の命、等々、この世がわかっているようで見失っているものを示して下さったのである。
キリストは天に上げられ終わったのではない。弟子達を置き去りにされたのでもない。約束通り今度はキリスト御自身が御聖霊となって来られ、弟子達の内なる命となり、これをキリストの教会として建て上げ、キリストの権威と使命を継承させ今も導いて下さっておられるのである。
教会は子供の成長と同じく日毎に変化し成長していくものだ。教会はキリストのからだとしての神の命が与えられているからである。神の命は神の愛そのものである。
「わたし達が愛し合うのは、神がまずわたし達を愛してくださったからである」とあるように愛の根拠は自分ではなく神なのである。即ちキリストの十字架にあるのだ。
世の人々はこれを知らず一切の根拠を自分に置く。だから問題が起きるとすぐ力が尽きる。又、どんなに善き事でも愛しても自分が根拠であるからエゴを脱することが出来ない。人間を駄目に不自由にしているのはこのエゴである。しかし、世の人はエゴが発揮できた時、自由を感じ生きがいを感じる。エゴが通らないと悲劇のヒーローになってしまう。今の世の政治、経済、社会をこの観点から見るとあらゆる問題の原因が見えて来る。「神がまず愛して下さった」ここにもう一度立とうではないか。
by oume-akebono
| 2013-06-03 10:31
| 週報メッセージ