2013年 03月 25日
3月10日 御霊を信じよう
(ガラテヤ5:16-18) 大谷 唯信 牧師
「私は命じる。御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない」
私達そして教会が成長するには「御霊によって歩く」以外はない。いよいよ私達は「御霊によって歩く」ことを求めようではないか。信仰生活は人間的な肉の力では絶対に出来ない。ただ信仰によって御霊の力により頼んで歩むならば誰にでも出来るのだ。「御霊の実」が豊かに実を結ぶのは神の約束である。
私達教会には神の命が与えられている事を覚えよう。そして命は必ず成長し、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ事を信じよう。私達の教会もやがて100人、150人の礼拝になってくる事であろう。「信仰の出来事」とするならば必ず実現する。そのためには日々その光景を信仰によって思い描き、信仰によってそれが観えるまで祈り込んでほしいのである。
「人には出来ないが神には出来る」との御言葉を信じよう。共に御業に授かろうではないか。これはすべての教会に与えられている神の恵みなのだ。ところがそうならない教会は残念ながら実に多い。原因はいろいろあると思うがその一つは、信仰に立っている積もりでも自分の考えに立つ、いわば肉的信者になっているのではなかろうか。これは私達も他人事ではなく、常に気をつけねばならない所である。誰もがそうであろう。だからパウロは「御霊によって歩きなさい」と言う事を「私は命じる」とまで言っている。それほど重要な事だからである。
知的理解の信仰はどうしても人の議論と考えに留まり、うまくいっても理解や感情に届く位のものであり命の力とはならないのである。たとえ聖書信仰に立っても正しい聖書理解であっても知識や理性の領域では生きた命とはならない。多くの教会がここで失敗しているのだ。御霊だけが御言葉に生きた命を吹き込み私達の命の隠れた根源に入って来られ神の真理の種を植え付け神の命として住まわれ、外からではなく内から、言葉ではなく力と命と真理となって御霊が働いて下さるのである。御霊を信じ御霊によって歩もうではないか。
「私は命じる。御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない」
私達そして教会が成長するには「御霊によって歩く」以外はない。いよいよ私達は「御霊によって歩く」ことを求めようではないか。信仰生活は人間的な肉の力では絶対に出来ない。ただ信仰によって御霊の力により頼んで歩むならば誰にでも出来るのだ。「御霊の実」が豊かに実を結ぶのは神の約束である。
私達教会には神の命が与えられている事を覚えよう。そして命は必ず成長し、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ事を信じよう。私達の教会もやがて100人、150人の礼拝になってくる事であろう。「信仰の出来事」とするならば必ず実現する。そのためには日々その光景を信仰によって思い描き、信仰によってそれが観えるまで祈り込んでほしいのである。
「人には出来ないが神には出来る」との御言葉を信じよう。共に御業に授かろうではないか。これはすべての教会に与えられている神の恵みなのだ。ところがそうならない教会は残念ながら実に多い。原因はいろいろあると思うがその一つは、信仰に立っている積もりでも自分の考えに立つ、いわば肉的信者になっているのではなかろうか。これは私達も他人事ではなく、常に気をつけねばならない所である。誰もがそうであろう。だからパウロは「御霊によって歩きなさい」と言う事を「私は命じる」とまで言っている。それほど重要な事だからである。
知的理解の信仰はどうしても人の議論と考えに留まり、うまくいっても理解や感情に届く位のものであり命の力とはならないのである。たとえ聖書信仰に立っても正しい聖書理解であっても知識や理性の領域では生きた命とはならない。多くの教会がここで失敗しているのだ。御霊だけが御言葉に生きた命を吹き込み私達の命の隠れた根源に入って来られ神の真理の種を植え付け神の命として住まわれ、外からではなく内から、言葉ではなく力と命と真理となって御霊が働いて下さるのである。御霊を信じ御霊によって歩もうではないか。
by oume-akebono
| 2013-03-25 11:08
| 週報メッセージ