2013年 03月 04日
2月17日 主の選びの恵み
(イザヤ40:28-29) 大谷 唯信 牧師
「主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」
イスラエルの民に与えられた主の約束は今やキリストを信じる信仰によって新しきイスラエルの民とされた私達教会に与えて下さっているのである。神が私達を選び教会として立てて下さった。その理由はその昔、イスラエルを選んだのと同じである。
「主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたをえらばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうちもっとも数の少ない者であった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあがない出されたのである。」(申命記7:6-8)と言われている。
この世は知恵ある者、賢い者、力ある者を選ぶ。今でもそうであろう。しかしパウロは語る、「この世は自分の知恵では神を認めるに至らなかった。それは神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって信じる者を救う事とされたのである」(コリントI1:21)と。
そこで「神は知者をはずかしめるためにこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、即ち、無きに等しい者をあえて選ばれたのである」と語る。正に私達の教会そのものではないか。キリスト教は理想的な教えや考え方、教訓の寄せ集めではない。現実のこの世の歴史の中に入り込みイスラエルの民との関わりを通し、神がいかに私達を愛しているかを現実の出来事として示しって来て下さっているのだ。その中に今、あなたも居る事に気づいてほしいのである。
「主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」
イスラエルの民に与えられた主の約束は今やキリストを信じる信仰によって新しきイスラエルの民とされた私達教会に与えて下さっているのである。神が私達を選び教会として立てて下さった。その理由はその昔、イスラエルを選んだのと同じである。
「主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなたがたをえらばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうちもっとも数の少ない者であった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあがない出されたのである。」(申命記7:6-8)と言われている。
この世は知恵ある者、賢い者、力ある者を選ぶ。今でもそうであろう。しかしパウロは語る、「この世は自分の知恵では神を認めるに至らなかった。それは神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって信じる者を救う事とされたのである」(コリントI1:21)と。
そこで「神は知者をはずかしめるためにこの世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、即ち、無きに等しい者をあえて選ばれたのである」と語る。正に私達の教会そのものではないか。キリスト教は理想的な教えや考え方、教訓の寄せ集めではない。現実のこの世の歴史の中に入り込みイスラエルの民との関わりを通し、神がいかに私達を愛しているかを現実の出来事として示しって来て下さっているのだ。その中に今、あなたも居る事に気づいてほしいのである。
by oume-akebono
| 2013-03-04 07:53
| 週報メッセージ