2013年 02月 08日
12月30日 人生の最高の問い
(ヨハネ21:17) 大谷 唯信 牧師
「イェスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』」
ペテロは三度も同じ質問をされると「心をいためてイェスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」と答えたのである。私達もこんな事がないだろうか。自分がわかっている積りの事を何度も言われるとイライラして来るのである。このわかっている積りが問題なのだ。
イェスはペテロがまだわかっていないと見るから言っているのだが・・・。イェスの自分に対する気持ちに少しでも意識がいっていれば「主よ、それはどう言うことでしょうか」と聞けた筈である。これこそ前向きであり謙虚と言うものだ。しかしペテロは「わたしがあなたを愛している事は、おわかりになっています」と相変わらず「わたしが、わたしが」の主張を押し付けているのである。
以前、最後の晩餐の時にもイェスが「今夜、あなたがたはわたしにつまずくであろう」と言われているのにそれに即答して「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言い切ったのもペテロであった。イェスはさらに「よくあなたに言っておく、今夜あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とまで言われているのに「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らない等とは決して申しません」と全く非の打ちどころのない程の正解の連発である。
その後これらが現実となりやっと正解ではなく自分の現実と向き合う事になるのである。あの放蕩息子が窮地に立った時はじめて父親を思い出したようにペテロも「イェスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた」のである。しかしそれでもこの程度である。この世は聖霊によらなければエゴから出られないのだ。この世の知恵は何をやっても正解の言葉遊びである。政治ごっこ、教育ごっこ、又、教会ですら教会ごっことなり得る。まず、イェスの「わたしを愛するか」があってその中に羊を養うすべての働きが成り立つ事を知るべきであろう。
「イェスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』」
ペテロは三度も同じ質問をされると「心をいためてイェスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」と答えたのである。私達もこんな事がないだろうか。自分がわかっている積りの事を何度も言われるとイライラして来るのである。このわかっている積りが問題なのだ。
イェスはペテロがまだわかっていないと見るから言っているのだが・・・。イェスの自分に対する気持ちに少しでも意識がいっていれば「主よ、それはどう言うことでしょうか」と聞けた筈である。これこそ前向きであり謙虚と言うものだ。しかしペテロは「わたしがあなたを愛している事は、おわかりになっています」と相変わらず「わたしが、わたしが」の主張を押し付けているのである。
以前、最後の晩餐の時にもイェスが「今夜、あなたがたはわたしにつまずくであろう」と言われているのにそれに即答して「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言い切ったのもペテロであった。イェスはさらに「よくあなたに言っておく、今夜あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とまで言われているのに「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らない等とは決して申しません」と全く非の打ちどころのない程の正解の連発である。
その後これらが現実となりやっと正解ではなく自分の現実と向き合う事になるのである。あの放蕩息子が窮地に立った時はじめて父親を思い出したようにペテロも「イェスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた」のである。しかしそれでもこの程度である。この世は聖霊によらなければエゴから出られないのだ。この世の知恵は何をやっても正解の言葉遊びである。政治ごっこ、教育ごっこ、又、教会ですら教会ごっことなり得る。まず、イェスの「わたしを愛するか」があってその中に羊を養うすべての働きが成り立つ事を知るべきであろう。
by oume-akebono
| 2013-02-08 09:08
| 週報メッセージ