2012年 11月 12日
10月28日 あなたは世の光
(マタイによる福音書 5:16) 大谷 唯信 牧師
「・・・あなたがたの光を人々の前に輝かし、・・・」
イエス・キリストを心の内に持つ者は、すでに神によって「地の塩」「世の光」とされている事を認めるべきである。自分の力によってではない。神によってそうされたのだ。イエスは「地の塩」になりなさい、とか「世の光」になるべきだ、と言われているのではない。すでにそうされているのである。それは血筋ではなく、能力でもなく、人の計画でもない。ただ神によってである。イエスの名によってバプテスマを受けた者は誰でも遠慮してはいけないのだ。
大胆に、確信を持って「わたしは地の塩、世の光である」と信じ、告白しようではないか。自分の努力や力でそうなったのであれば、少々遠慮して、余り言わないでいるのが美徳かもしれない。しかし、それほどの力があり、正しい人は世界中に誰もいない、と聖書は語る。「・・・義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、・・・」(ローマ人への手紙3:10-11)ただ、イエスの十字架の福音を信じた者だけが、その信仰によってそうされているのである。
しかもその信仰の根拠は自分の信仰、自分の力では全くない。あなたの信仰の根拠は神御自身である。あなたはかつては何でも出来なければいけないと思ってきた。いつも出来る所で勝負してきた。だから、勝っても負けても自分と言う殻の中に閉じ込められ、自我の誇りや失望に振りまわされていた不自由な自分であった。それが信仰を持っても、またもや自分の信仰、自分の力で勝負するのだろうか。これでは信仰による自己実現ではないか。神の力を利用して自己実現をするエゴそのものである。
気をつけねばならない。今迄の古い生き方、行動パターンが出るのである。もう一度確認しよう。私達は何も出来ないのだ。「自分は何も出来ない」と悟った時、無限に神の世界が拡がるのだ。この世の人は「出来る」所で勝負する。キリスト者は「出来ない」所で勝負するのだ。「人には出来ないが神には出来る」からである。根拠は神にある。出来ないからこそ、信仰によって強いのである。
「・・・あなたがたの光を人々の前に輝かし、・・・」
イエス・キリストを心の内に持つ者は、すでに神によって「地の塩」「世の光」とされている事を認めるべきである。自分の力によってではない。神によってそうされたのだ。イエスは「地の塩」になりなさい、とか「世の光」になるべきだ、と言われているのではない。すでにそうされているのである。それは血筋ではなく、能力でもなく、人の計画でもない。ただ神によってである。イエスの名によってバプテスマを受けた者は誰でも遠慮してはいけないのだ。
大胆に、確信を持って「わたしは地の塩、世の光である」と信じ、告白しようではないか。自分の努力や力でそうなったのであれば、少々遠慮して、余り言わないでいるのが美徳かもしれない。しかし、それほどの力があり、正しい人は世界中に誰もいない、と聖書は語る。「・・・義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、・・・」(ローマ人への手紙3:10-11)ただ、イエスの十字架の福音を信じた者だけが、その信仰によってそうされているのである。
しかもその信仰の根拠は自分の信仰、自分の力では全くない。あなたの信仰の根拠は神御自身である。あなたはかつては何でも出来なければいけないと思ってきた。いつも出来る所で勝負してきた。だから、勝っても負けても自分と言う殻の中に閉じ込められ、自我の誇りや失望に振りまわされていた不自由な自分であった。それが信仰を持っても、またもや自分の信仰、自分の力で勝負するのだろうか。これでは信仰による自己実現ではないか。神の力を利用して自己実現をするエゴそのものである。
気をつけねばならない。今迄の古い生き方、行動パターンが出るのである。もう一度確認しよう。私達は何も出来ないのだ。「自分は何も出来ない」と悟った時、無限に神の世界が拡がるのだ。この世の人は「出来る」所で勝負する。キリスト者は「出来ない」所で勝負するのだ。「人には出来ないが神には出来る」からである。根拠は神にある。出来ないからこそ、信仰によって強いのである。
by oume-akebono
| 2012-11-12 07:50
| 週報メッセージ