2012年 11月 11日
10月14日 聖書の人間理解(4)
(テサロニケ人への第一の手紙 5:23) 大谷 唯信 牧師
「平和の神ご自身が、あなたがたを徹底的に聖別し、あなたがたの霊と魂と体とを完全に守って・・・」
この世で言う人間理解は心と体の二つを心理的、身体的に捕らえようとするのが一般的である。近年になって特に精神的な病が増大し、小中高の子供から大人に至るまで「心を強く」「心を豊かにするために」等が叫ばれいろいろ対応がなされているが根本的にはどうしてよいのかわからないのが現状ではなかろうか。
聖書は人間を、まず神が御自身の形に創造された霊的存在として捕らえている。新約聖書回復訳の解説がわかりやすいので参考にしながら話して見よう。上記の御言葉は霊と魂と体の三つから成る事を示す。霊は自分の最も深い部分の内なる器官であり、神の知覚があって、私達を神に触れさせる(ヨハネ4:24)。
魂は私達の自己そのものであり、私達の霊と体の間にあり人格を持つ。体は私達の外側の部分、外なる器官であってこの世への知覚を持ち私達を物質の世界に触れさせる。体は魂を入れる器であり、魂は霊を入れる器である。霊の中にはその霊としての神がその人の信仰に応じて住まわれ、魂の中には私達の自己(自我)が住み、体の中には物質への五感、欲望が働いている。神はまずキリストによる新生を与え私達の霊を所有され聖別して下さる。
次にキリストの力を魂へと広げ浸透し、それを造り変える事で聖別される(ロマ12:2)最後に私達の魂を通して、死ぬべき体を生かし(ロマ8:11、13)、聖別して下さるのである。しかし救われてすぐに完全になるのではない。失敗しながら成長するのである。始めは皆、幼いクリスチャンなのだ。幼いとは救われても肉的なのである。私達は日常、心で生きている。その心は霊と体の間にはさまれ、両者の影響で動いているのだ。心の判断で霊につくか肉につくかにかかっている。「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」(ロマ8:6)とある。霊を育てるには霊の食物である御言葉と教会に養われる事だ。霊の成長を求めよう。
「平和の神ご自身が、あなたがたを徹底的に聖別し、あなたがたの霊と魂と体とを完全に守って・・・」
この世で言う人間理解は心と体の二つを心理的、身体的に捕らえようとするのが一般的である。近年になって特に精神的な病が増大し、小中高の子供から大人に至るまで「心を強く」「心を豊かにするために」等が叫ばれいろいろ対応がなされているが根本的にはどうしてよいのかわからないのが現状ではなかろうか。
聖書は人間を、まず神が御自身の形に創造された霊的存在として捕らえている。新約聖書回復訳の解説がわかりやすいので参考にしながら話して見よう。上記の御言葉は霊と魂と体の三つから成る事を示す。霊は自分の最も深い部分の内なる器官であり、神の知覚があって、私達を神に触れさせる(ヨハネ4:24)。
魂は私達の自己そのものであり、私達の霊と体の間にあり人格を持つ。体は私達の外側の部分、外なる器官であってこの世への知覚を持ち私達を物質の世界に触れさせる。体は魂を入れる器であり、魂は霊を入れる器である。霊の中にはその霊としての神がその人の信仰に応じて住まわれ、魂の中には私達の自己(自我)が住み、体の中には物質への五感、欲望が働いている。神はまずキリストによる新生を与え私達の霊を所有され聖別して下さる。
次にキリストの力を魂へと広げ浸透し、それを造り変える事で聖別される(ロマ12:2)最後に私達の魂を通して、死ぬべき体を生かし(ロマ8:11、13)、聖別して下さるのである。しかし救われてすぐに完全になるのではない。失敗しながら成長するのである。始めは皆、幼いクリスチャンなのだ。幼いとは救われても肉的なのである。私達は日常、心で生きている。その心は霊と体の間にはさまれ、両者の影響で動いているのだ。心の判断で霊につくか肉につくかにかかっている。「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」(ロマ8:6)とある。霊を育てるには霊の食物である御言葉と教会に養われる事だ。霊の成長を求めよう。
by oume-akebono
| 2012-11-11 22:11
| 週報メッセージ