2012年 09月 06日
9月2日 すべてはイエスにある
(ヨハネによる福音書1:12-13) 大谷 唯信 牧師
「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力(資格)を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。」
キリスト教と他の宗教の異なる点は、教えや教理がキリスト御自身の上に建てられていることである。日本では仏教、儒教等から文化、教育、道徳、人生観等に大きな影響を受けている。その中心は孔子や釈迦その人にあるのではなく、彼らの語った教えや教理、主義が中心と言えよう。その他多くの宗教があろうが、教祖は理想とする教え、教理、規則等を作って宗教の内容としたのである。
キリスト教は教理や教えの上に建てられたのではなく、初めからキリスト御自身なのである。道について教えたのではない。「わたしが道である」とご自分を示された。真理についてとか、命について語ったのではなく、「わたしが真理であり命である」と教えや教理としてではなくキリスト御自身を示されたのである。
聖書が一貫して語っている事は、キリストが神であり、キリストが救いである事を証しているのである。私達が気をつけねばならない事は、長年、聖書を読んでいると、いつの間にか御言葉が教理的に神学的解釈や教義学的理解に走り、それがキリストを深く知るとの錯覚に陥ることだ。勿論、学ぶ事は大切である。しかし知識として頭に入れるだけになりやすいのだ。「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリント人への第二の手紙3:6)からである。また「知識は人を誇らせ、霊は人の徳を高める」のである。
霊から来る知識は深い。キリストにつながっているからだ。この世での知識はほとんど肉にある事を覚えよう。どれほど優れていても「肉は肉」である。イエスは「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」(ヨハネによる福音書6:63)と言われている。
どうしたら霊の人として生きる事ができるのか。冒頭の御言葉にあるように、イエスを信じ、イエスを迎え、共に生きる事である。
「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力(資格)を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである。」
キリスト教と他の宗教の異なる点は、教えや教理がキリスト御自身の上に建てられていることである。日本では仏教、儒教等から文化、教育、道徳、人生観等に大きな影響を受けている。その中心は孔子や釈迦その人にあるのではなく、彼らの語った教えや教理、主義が中心と言えよう。その他多くの宗教があろうが、教祖は理想とする教え、教理、規則等を作って宗教の内容としたのである。
キリスト教は教理や教えの上に建てられたのではなく、初めからキリスト御自身なのである。道について教えたのではない。「わたしが道である」とご自分を示された。真理についてとか、命について語ったのではなく、「わたしが真理であり命である」と教えや教理としてではなくキリスト御自身を示されたのである。
聖書が一貫して語っている事は、キリストが神であり、キリストが救いである事を証しているのである。私達が気をつけねばならない事は、長年、聖書を読んでいると、いつの間にか御言葉が教理的に神学的解釈や教義学的理解に走り、それがキリストを深く知るとの錯覚に陥ることだ。勿論、学ぶ事は大切である。しかし知識として頭に入れるだけになりやすいのだ。「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリント人への第二の手紙3:6)からである。また「知識は人を誇らせ、霊は人の徳を高める」のである。
霊から来る知識は深い。キリストにつながっているからだ。この世での知識はほとんど肉にある事を覚えよう。どれほど優れていても「肉は肉」である。イエスは「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」(ヨハネによる福音書6:63)と言われている。
どうしたら霊の人として生きる事ができるのか。冒頭の御言葉にあるように、イエスを信じ、イエスを迎え、共に生きる事である。
by oume-akebono
| 2012-09-06 07:03
| 週報メッセージ