2012年 08月 10日
7月29日 どうしたら救われるか
(マタイによる福音書16:15-16) 大谷 唯信 牧師
「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」
全世界の人が救われてクリスチャンになる事は神の熱い思いである。ではどうすればクリスチャンになれるのだろう。「わたしはあまりにも弱いし何も出来ないし、それでもクリスチャンになれたら・・・」と真面目に心密かに求めながらも、まあ、自信がないと言う事で止まってしまう。このような人が結構おられるのではなかろうか。実にわたしがそうだったのである。何年もの間カラ廻りをしてしまった。それは全て何の関係もなかったのである。
クリスチャンになるのは「あれもやってこれもやって・・・」ではなかった。大切なのは「イエスこそ生ける神の子でありわたしの救い主である」と認め信じる事なのだ。驚くことにこの一点なのである。この一点こそが入り口であり、同時にこれが深められ到達地点になるのである。「でもわたしはそんなに深められない」と心配が出て来るがそれも関係ない。何故なら深まるのも成長するのも御聖霊がなさって下さるのである。
ペテロも求めて来た人に「悔い改めなさい。そして、イエス・キリストのなによってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒行伝2:38)と言っている。即ち、信じてバプテスマを受けると言う行動の一歩を踏み出した所に御聖霊は働いて下さる原則がここにも見られるのである。何かを自分の力でするのではない。心に信じて御言葉に従う一歩に、御聖霊は助け手として働かれるのである。これを信仰の一歩と言う。
イエスの言う「まず、神の国と神の義を求めよ」とは「まず、救い主イエスを受け入れよ」の一歩なのである。「そうすれば、それらのものはすべてそえて与えられる」との約束がついて来る。「何でも祈り求める事はすでにかなえられたと信じなさい。そうすればその通りになるであろう」(マルコ11:24)これらの御言葉の根拠はわたしの信仰でも行いでもない。イエス御自身であり神御自身である。自分ではなく神を見るのだ。
「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」
全世界の人が救われてクリスチャンになる事は神の熱い思いである。ではどうすればクリスチャンになれるのだろう。「わたしはあまりにも弱いし何も出来ないし、それでもクリスチャンになれたら・・・」と真面目に心密かに求めながらも、まあ、自信がないと言う事で止まってしまう。このような人が結構おられるのではなかろうか。実にわたしがそうだったのである。何年もの間カラ廻りをしてしまった。それは全て何の関係もなかったのである。
クリスチャンになるのは「あれもやってこれもやって・・・」ではなかった。大切なのは「イエスこそ生ける神の子でありわたしの救い主である」と認め信じる事なのだ。驚くことにこの一点なのである。この一点こそが入り口であり、同時にこれが深められ到達地点になるのである。「でもわたしはそんなに深められない」と心配が出て来るがそれも関係ない。何故なら深まるのも成長するのも御聖霊がなさって下さるのである。
ペテロも求めて来た人に「悔い改めなさい。そして、イエス・キリストのなによってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒行伝2:38)と言っている。即ち、信じてバプテスマを受けると言う行動の一歩を踏み出した所に御聖霊は働いて下さる原則がここにも見られるのである。何かを自分の力でするのではない。心に信じて御言葉に従う一歩に、御聖霊は助け手として働かれるのである。これを信仰の一歩と言う。
イエスの言う「まず、神の国と神の義を求めよ」とは「まず、救い主イエスを受け入れよ」の一歩なのである。「そうすれば、それらのものはすべてそえて与えられる」との約束がついて来る。「何でも祈り求める事はすでにかなえられたと信じなさい。そうすればその通りになるであろう」(マルコ11:24)これらの御言葉の根拠はわたしの信仰でも行いでもない。イエス御自身であり神御自身である。自分ではなく神を見るのだ。
by oume-akebono
| 2012-08-10 22:46
| 週報メッセージ