2012年 07月 09日
7月1日 御霊の信仰で歩もう
(ガラテヤ人への手紙 3:3) 大谷 唯信 牧師
「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。」
イエスを自分の救い主と信じ、罪を悔い改めてバプテスマを受け、クリスチャンとしての歩みを始めると、神からの御聖霊が注がれ、その人の霊に神の命が入り、生きた者とされるのである。霊の命が豊かにされると同時に、自分の中にある肉の部分がさらにはっきりと見えてくる。
肉は自己が中心であり、自分の正しさ自分の栄光が第一である。能力のある者なら素晴らしいリーダーシップを発揮し、人に親切、思いやり、やさしさもあり、人に喜ばれる働きも多くできるであろう。だが、すべては自分である。自分の栄光、自分の満足である。思うように行かなかったり、自分が中心から外れたり、他から注意されたりすると、途端に一変し、不機嫌になったり、非協力的になったりもする。
パウロはコリント教会に対して、「あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。」と語っている。肉の特性なのだ。一般にはこれが普通であって、当たり前の事であろう。今の国会での人間模様を見るとよくわかると思う。しかも、それぞれが皆、正しいのである。
クリスチャンになると神の命が注がれ、新しく生きる者とされる。心の目が開かれ、肉の働きが自他共に見えてくる。かと言って常に霊の力で歩めるわけではない。まだ霊性が育っていないからだ。パウロはコリント教会の人々に、「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力がまだあなたがたになかったからである。」と語っている。
霊性が深められていないと、肉の働きが出てしまうのである。「今になって肉で仕上げるというのか。」とのパウロの言葉は、私達も常に聞き自らを吟味する必要がある。御霊によって歩もうではないか。日々、肉を捨て、主を仰ぎ見よう。信仰によって、である。
「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。」
イエスを自分の救い主と信じ、罪を悔い改めてバプテスマを受け、クリスチャンとしての歩みを始めると、神からの御聖霊が注がれ、その人の霊に神の命が入り、生きた者とされるのである。霊の命が豊かにされると同時に、自分の中にある肉の部分がさらにはっきりと見えてくる。
肉は自己が中心であり、自分の正しさ自分の栄光が第一である。能力のある者なら素晴らしいリーダーシップを発揮し、人に親切、思いやり、やさしさもあり、人に喜ばれる働きも多くできるであろう。だが、すべては自分である。自分の栄光、自分の満足である。思うように行かなかったり、自分が中心から外れたり、他から注意されたりすると、途端に一変し、不機嫌になったり、非協力的になったりもする。
パウロはコリント教会に対して、「あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。」と語っている。肉の特性なのだ。一般にはこれが普通であって、当たり前の事であろう。今の国会での人間模様を見るとよくわかると思う。しかも、それぞれが皆、正しいのである。
クリスチャンになると神の命が注がれ、新しく生きる者とされる。心の目が開かれ、肉の働きが自他共に見えてくる。かと言って常に霊の力で歩めるわけではない。まだ霊性が育っていないからだ。パウロはコリント教会の人々に、「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力がまだあなたがたになかったからである。」と語っている。
霊性が深められていないと、肉の働きが出てしまうのである。「今になって肉で仕上げるというのか。」とのパウロの言葉は、私達も常に聞き自らを吟味する必要がある。御霊によって歩もうではないか。日々、肉を捨て、主を仰ぎ見よう。信仰によって、である。
by oume-akebono
| 2012-07-09 23:28
| 週報メッセージ