2010年 11月 14日
11月14日 ここが出発点
(ルカによる福音書 15:14) 大谷 唯信 牧師
「彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって・・・」
本心に立ちかえり本心で生きる事こそ神の望んでいる事である。人は誰でも本心に立ちかえらなければならない。本心とは神から与えられている霊的命の自己である。人は神を離れ自我(エゴ)によって生きるようになり、自分の奥に霊的命を閉じ込めてしまった。
今では本心なるものがどういうものかも知らず、自我が自分だと思い、自分なりの生き方、自分らしく、有るがまま等と最もらしくいっているが、何をやってもそれは自我の領域であって自己中心のものでしかないが気づかない。肉は肉だからである。「人を生かすのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)とイエスは言われた。
「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安である。何故なら、肉の思いは神に敵するからである。」(ロマ8:5)「誰でも新しく生まれなければ、神の国をを見ることは出来ない」(ヨハネ3:3)も「誰でも幼な子のようにならなければ天国に入ることができない」(マタイ18:3)もこれらは「本心に立ちかえる」べき事を示しているのである。しかし人はそう簡単にはなれない。何故か。それはほとんどの人が自分なりには本心で生きていると思い、完全とは言わなくても結構いい線を行っていると思っているからである。
不満足でありながらも満足しているのだ。ぬるま湯人生なのである。この放蕩息子はすべてを失い惨めな状況に追い込まれ死を覚悟しなければならない状態になった時、はじめて本心に立ちかえった。「父よ、私は天に対しても父に対しても罪を犯しました。あなたの息子と呼ばれる資格はありません」と父に詫びた。本心に目覚めたのだ。自我は砕かれ罪深さ、傲慢さに気づき悔い改め本当の自分となると生きる力が湧いて来る。ここが出発点である。神の命とつながり本心を深める事こそ真に生きることになる。
「彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって・・・」
本心に立ちかえり本心で生きる事こそ神の望んでいる事である。人は誰でも本心に立ちかえらなければならない。本心とは神から与えられている霊的命の自己である。人は神を離れ自我(エゴ)によって生きるようになり、自分の奥に霊的命を閉じ込めてしまった。
今では本心なるものがどういうものかも知らず、自我が自分だと思い、自分なりの生き方、自分らしく、有るがまま等と最もらしくいっているが、何をやってもそれは自我の領域であって自己中心のものでしかないが気づかない。肉は肉だからである。「人を生かすのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)とイエスは言われた。
「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安である。何故なら、肉の思いは神に敵するからである。」(ロマ8:5)「誰でも新しく生まれなければ、神の国をを見ることは出来ない」(ヨハネ3:3)も「誰でも幼な子のようにならなければ天国に入ることができない」(マタイ18:3)もこれらは「本心に立ちかえる」べき事を示しているのである。しかし人はそう簡単にはなれない。何故か。それはほとんどの人が自分なりには本心で生きていると思い、完全とは言わなくても結構いい線を行っていると思っているからである。
不満足でありながらも満足しているのだ。ぬるま湯人生なのである。この放蕩息子はすべてを失い惨めな状況に追い込まれ死を覚悟しなければならない状態になった時、はじめて本心に立ちかえった。「父よ、私は天に対しても父に対しても罪を犯しました。あなたの息子と呼ばれる資格はありません」と父に詫びた。本心に目覚めたのだ。自我は砕かれ罪深さ、傲慢さに気づき悔い改め本当の自分となると生きる力が湧いて来る。ここが出発点である。神の命とつながり本心を深める事こそ真に生きることになる。
by oume-akebono
| 2010-11-14 23:58
| 週報メッセージ