2010年 09月 19日
9月19日 だから喜びなさい
(ピリピ 2:15) 大谷 唯信 牧師
「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」
誰でも神の独り子、イェスを自分の救い主として「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)のである。これが神の私達を救う方法なのだ。決して自分の知識や努力や修業によって救われるのではない。この他に救われる方法は何一つない事を私達は知るべきである。
信仰、バプテスマ、救い、の順序である。信仰、救い、バプテスマではないのだ。「こちらの順序がわたしはいいと思う」と言ったりする人もいるが自己流では意味がない。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」とはイェス御自身の言葉である。
近頃、自分勝手な信仰解釈で、「信じれば救われるのでバプテスマは受けなくてもよい」とする者を牧師養成をする西南学院神学部に神学生として入学を許可したとの事である。卒業して牧師となった時、どのような指導をするのだろうか。「西南よ、キリストに忠実なれ」との建学精神で建てられた西南も建物や学生数は堂々たるものと発展しているが全く地に落ちたものだ。生ける「いのちの言葉」を失うと神学校ですら盲目となり巧妙なサタンの手におちるのである。
私達は自分の考えではなく御言葉によって歩もうではないか。「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」。何と素晴らしい約束であろうか。「彼らの間」とは「曲がった邪悪な時代のただ中にあって」(ピリピ2:15)であり、「この世」とはアダム以来、罪とサタンに支配されてしまっている私達の住んでいるこの世界そのものである。しかし、神はこの世を愛して下さってイェスを信じてバプテスマを受ける事を通して私達をこの世から贖い出して下さったのである。救いとは死んだ後の永遠の命を得るだけではなく、生きている今、この世にありながらサタンの滅びの支配から拾い上げて下さり、世の光として星のように輝かして下さっておられるのである。
「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」
誰でも神の独り子、イェスを自分の救い主として「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)のである。これが神の私達を救う方法なのだ。決して自分の知識や努力や修業によって救われるのではない。この他に救われる方法は何一つない事を私達は知るべきである。
信仰、バプテスマ、救い、の順序である。信仰、救い、バプテスマではないのだ。「こちらの順序がわたしはいいと思う」と言ったりする人もいるが自己流では意味がない。「信じてバプテスマを受ける者は救われる」とはイェス御自身の言葉である。
近頃、自分勝手な信仰解釈で、「信じれば救われるのでバプテスマは受けなくてもよい」とする者を牧師養成をする西南学院神学部に神学生として入学を許可したとの事である。卒業して牧師となった時、どのような指導をするのだろうか。「西南よ、キリストに忠実なれ」との建学精神で建てられた西南も建物や学生数は堂々たるものと発展しているが全く地に落ちたものだ。生ける「いのちの言葉」を失うと神学校ですら盲目となり巧妙なサタンの手におちるのである。
私達は自分の考えではなく御言葉によって歩もうではないか。「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」。何と素晴らしい約束であろうか。「彼らの間」とは「曲がった邪悪な時代のただ中にあって」(ピリピ2:15)であり、「この世」とはアダム以来、罪とサタンに支配されてしまっている私達の住んでいるこの世界そのものである。しかし、神はこの世を愛して下さってイェスを信じてバプテスマを受ける事を通して私達をこの世から贖い出して下さったのである。救いとは死んだ後の永遠の命を得るだけではなく、生きている今、この世にありながらサタンの滅びの支配から拾い上げて下さり、世の光として星のように輝かして下さっておられるのである。
by oume-akebono
| 2010-09-19 18:01
| 週報メッセージ