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青梅あけぼのキリスト教会 omeakebono.exblog.jp

青梅あけぼのキリスト教会 日本バプテスト連盟 牧師 : 大谷唯信 副牧師 : 森元國文 〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3 ☎︎0428-76-0634


by oume-akebono
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(使徒行伝 4:13)     大谷唯信牧師


「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。 」



あの弱かったペテロが驚くべき変身をとげた。いつも失敗してイエスに叱られていたペテロ。常に熱心で思わず思ったことをすぐに口にし、行動してしまうペテロ。良かれと思っての事が結果的には失敗となってしまうペテロ。イエスから「サタンよ、退け!」とまでの叱責を受けたり、ユダの裏切りに激怒し、自分は死に至っても忠誠をと心から誓いつつ、自分もイエスを裏切ってしまうペテロ。どうしてこうなってしまうのだろう。


肉で歩いているからだ。イエスは霊の次元で語るのだが、受け取るペテロは肉の次元でしか分からなかったのだ。どれほど熱心でも、心をこめても「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」。(ローマ人への手紙 8:5)「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」(ローマ人への手紙 8:6)の通りであった。ペテロにはそれがわからなかったのである。


しかし、約束通り聖霊が注がれた時、その瞬間から事態は全く変わった。霊に生きる者となったのだ。その記録が使徒行伝である。ペテロは主に変えられた。否、ペテロの中にキリストが生きたのだ。これがクリスチャンの醍醐味であろう。聖霊の働きである。この聖霊は二千年を経た今も教会に与えられている。イエスを信じる者には、そして聖霊を信じる者には、既に与えられているのである。


私達も肉ではなく聖霊に満たされる恵みを受けようではないか。悪魔は私達の肉に働きかけ、動かそうとしている。アダムに働きかけた悪魔、イエスを荒野で誘惑した悪魔は、今も私達に迫っている。悪い事よりも良き事を通して敵意、争い、分裂、分派を起こす力となってくるから気をつけよう。肉は情と欲と共に十字架につけてしまおうではないか。(ガラテヤ人への手紙 5:24)

誰でもこの願いを求めつつ歩むならば、主は必ず応えてくださり、今度はあなたが、人々から不思議に思われるあなたとなるのである。









# by oume-akebono | 2024-03-03 12:16 | 週報メッセージ

(創世記 32:24 )          大谷唯信牧師


「ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。 」



信仰生活は日々聖霊の助けによってのみ支えられる事を知ろう。聖霊なしの信仰は頭での知識と理解だけであって生きてはいない。律法的であり教条的である。本人は真面目で几帳面に頑張っていても、次第に初めの感動は失せ、無味乾燥となり重荷とさえ思えるようになってくる。孤独で暗く無気力になったり、実に辛いものだ。だがこれは霊的に次の成長段階に行くべきサインでもあるのだ。


神は時に、自分を支えているあらゆるものを取り外すことがある。自分の健康、能力、得意とする賜物、仕事、家庭、自分を支えているはずの信仰でさえもである。全て何もない無力の中に落とし込む。「ヤコブはひとりあとに残った」とある。彼は賢く、さらに神の特別な祝福を受け、何をやっても成功し、莫大な財産と家庭を得て家族と共に故郷へ帰ろうとしていた。しかし途中、兄エサウが自分を殺そうと待ち受けている事を知り、恐れ、兄の怒りを和らげるため莫大な貢ぎ物を車に、一群、二群、三群と先に行かせ、最後に妻と子供を行かせる策を講じた。それでも恐れは消えず一人だけヤボクの渡しに残ったのであった。 彼は恐れと不安の中で自信もプライドも失い、家族や全ての財産をも切り離して、闇の夜をひとりぼっちで死の恐怖の中に取り残されていたのである。


ところがこの最悪の晩こそが最高の栄光ある出来事が起きた晩となった。「ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした」。 ここに神との出会いが起きたのだ。彼はこの世で全きひとりとなって真正面から自分の実情、苦しみ、悲しみ、弱さ、罪深さを正直に自分の存在そのものだけになって神に叫び訴え、泣き、呻き、「主よわたしをあわれんで下さい、祝福して下さるまではあなたを離しません」と神に願うまでになった。主の前に自分を捨て、得ではなく損を取ったのだ。全託でもある。主の御心の中に自分を浸し沈めていく、「そうすれば主が高くして下さる」(ヤコブ4:10)。これが霊的人生の法則である。








# by oume-akebono | 2024-02-25 12:15 | 週報メッセージ

2月18日  ここが出発点

(ルカによる福音書 15:16-17) 大谷唯信牧師


「彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって・・・」



本心に立ちかえり本心で生きる事こそ神の望んでいる事である。人は誰でも本心に立ちかえらなければならない。本心とは神から与えられている霊的命の自己である。人は神を離れ自我(エゴ)によって生きるようになり、自分の奥に霊的命を閉じ込めてしまった。今では本心なるものがどういうものかも知らず、自我が自分だと思い、自分なりの生き方、自分らしく、有るがまま等と最もらしくいっているが、何をやってもそれは自我の領域であって自己中心のものでしかないが気づかない。肉は肉だからである。


「人を生かすのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネによる福音書6:63)とイエスは言われた。「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安である。何故なら、肉の思いは神に敵するからである。」(ローマ人への手紙8:6-7)「誰でも新しく生まれなければ、神の国をを見ることはできない」(ヨハネによる福音書3:3)も「誰でも幼な子のようにならなければ天国に入ることができない」(マタイによる福音書18:3)もこれらは「本心に立ちかえる」べき事を示しているのである。


しかし人はそう簡単にはなれない。何故か。それはほとんどの人が自分なりには本心で生きていると思い、完全とは言わなくても結構いい線を行っていると思っているからである。不満足でありながらも満足しているのだ。ぬるま湯人生なのである。この放蕩息子はすべてを失い惨めな状況に追い込まれ死を覚悟しなければならない状態になった時、はじめて本心に立ちかえった。「父よ、私は天に対しても父に対しても罪を犯しました。あなたの息子と呼ばれる資格はありません」と父に詫びた。本心に目覚めたのだ。


自我は砕かれ、罪深さ傲慢さに気づき悔い改め、本当の自分となる生きる力が湧いて来る。ここが出発点である。神の命とつながり本心を深める事こそ真に生きることになる。










# by oume-akebono | 2024-02-18 12:11 | 週報メッセージ

2月11日  自分を手放せ

(ローマ人への手紙12:1)    大谷唯信牧師


「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたのなすべき霊的な礼拝である」



今日は気分がいいとか悪いとか、落ち込んだ、イラだっている、やる気がない、祈れない等々の気分に振りまわされている人が何と多いことか。そんな事はどっちでもよいのだ。生きていれば近頃の天気のようにいきなり雨が降ったりやんだり、雷が鳴ったり地震があったりで何でもありが人生である。自分にしがみついてはいけない。自分を解放し手放すのだ。


「自分の命を得ようとする者は失い、捨てる者が得る」とは命の原則である。私達は仕事をするのも休むのも、飲むのも食べるのも、生きるのも死ぬのも主のため、とパウロは語っている。即ち、私達は日々、生活の出来事に向かっているわけだが単にそれをしているのではない。それらを通して神と出会い、神への応答として神のためにしていると言う意識(信仰)を持つ事が大切なのだ。


普通の人はただ仕事をし自分のため、人のため、金のためで生きている。私達はすべての事がそこで留まらず、何をしていても神のため、神の出来事として行うと言う意識に持っていく、自分とか人とかの次元ではなく神との出来事としての信仰によって取り組むのである。するとサタンは「そのような信仰が本当にあるのか」「あなたは聖なる供え物となっているのか、もう少し準備をしてからにしたら…」等ともっともな事を言って足を引っぱるから気をつけねばならない。そんな事はどうでもいいのだ。


現実の有りのままの自分をそのまま主の前に投げ出し、主を拝していく、その時主がそれを聖め生きたものとして下さるのである。自分で自分を聖める等できる訳がないではないか。ただその信仰で心を尽して主に捧げていくのである。自分にしがみついてはいけない。自分を手放す程に聖霊が入り信仰の世界は拡がり確実なものになってくるから不思議である。








# by oume-akebono | 2024-02-11 11:09 | 週報メッセージ

【聖書箇所】ヘブル人への手紙12:2

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」。


 「イエスを仰ぎ見る」のだ。あなたの目はいまどこに向けられているのか。人間、誰でも痛めばその傷口に目がいく。困ったこと、心配事、悩み事が起きればその出来事に目がいく。当然であろう。何とか解決をしなければと思うほどそこを深く見ることになっていく。それは必要なことなのだが、問題は心が落ち込み、心が痛んでしまうことなのである。

イエスは言われた。「この世では悩みがある、しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と。私達はこの世で生きていると同時に、イエスの救いによって霊的生命の世界に生かされているのである。これを忘れて、この世の人と同じように忙しく悩みつつ走りまわってはいけない。主はあなたのすべての現状を御存知なのである。

とにかくイエスを仰ぎ見ようではないか。イエスを捕えているあなたの手ではなくイエスを見るのだ。あなたの希望、確信ではなく、あなたの信仰を見るのでもなく、完成者であるイエスを仰ぎ見よ。信仰はイエスから来るからである。



大谷唯信牧師


# by oume-akebono | 2024-02-04 12:46 | 週報メッセージ