受難日礼拝

受難週を迎えました。
罪人であるわたし達を神様と和解させるために、わたし達の罪を贖って下さったイエス様の十字架の御業を覚え、今週の金曜日(14日)は、午後8時から受難日礼拝が行われます。
そして、16日の主日はイースター礼拝です。
教会学校では、イエス様の復活をお祝いします。
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# by oume-akebono | 2017-04-11 01:12 | 集会案内

(ペテロの第一の手紙 3章8-9節)       大谷唯信牧師



「あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」



新年度を迎え、皆様も新しい目標、課題、思いもしなかった問題等々を目の前にし新たな思いで取組まれている事でしょう。近頃世界はトップ指導者の愚かな言動で不安を撒き散らし結局は武力による均衡でのかろうじての平和維持で、昔ながらのこの低次元のワンパターンを脱却できず、人間の弱さを見る思いです。「実に被造物全体が、今に至るまで共にうめき共に産みの苦しみを続けている」(ロマ8:22)のです。わたし達の生活でもこの世はサタンの支配にあり肉の働きの強い支配が迫って来るのが現実ですから「御霊の最初の実を持っているわたし達自身も、心の内でうめきながら、からだのあがなわれることを待ち望んでいるのです」(ロマ8:23)



しかし私達クリスチャンは「御霊もまた同じように、弱いわたし達を助けて下さり、どう祈ったらよいかわからなくても、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもってわたし達のためにとりなして下さる」(ロマ8:26)のです。しかも「神は、神を愛する者たち、即ち、御計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益として下さる」(ロマ8:28)のですから感謝です。



イエスさまは「人が生きるのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)と語っています。



冒頭の御言葉はあの弱かったペテロが聖霊に変えられて語っているのです。わたし達はこういうペテロを見て励まされます。彼はどのようにして変えられたのでしょうか。彼の生涯を学んで下さい。彼は主に従いながら変えられました。今は教会がキリストです。冒頭の御言葉を実践し自分の生き方、有り方をチェックしキリストと共に死に共によみがえる信仰を自分の中に確立していく目標で歩みましょう。























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# by oume-akebono | 2017-04-09 13:49 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1章18節)       大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。



わたし達の教会も4月を迎え、新年度をスタートしたのである。昨年は「御言葉による霊的成長」をテーマとして歩んできた。今年はその延長線ではあるが、さらに御言葉の力を信仰によって獲得し「生きた教会」とされ神の安息に満たされ「主の証人」として立ちたいからである。



その力の源は御言葉にある。御言葉によって神と出会えるからである。「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」(詩篇119:130)「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119:105)「あなたの御言葉を愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません」(詩篇119:165)このように御言葉は大いなる力が秘められているのだ。



しかし、同じく御言葉を聞いて労苦を共にし歩んで来たにもかかわらず、何ら意味がなかった者もいたと聖書は語る。何故か!それはわたし達も知っておく必要があろう。「その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。(ヘブル4:2)

7000年前のアダムの時から現在まで、成功と失敗は同じ原因である。即ち、信仰と不信仰の違いだけである。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。(ヘブル11:6)のである。



信仰は上からの神の知恵を得る。この世の人は神を信ぜず自分の知識、この世の常識で生きるのを良しとする。しかし人は、人間の考える理性、常識以上に深い霊的存在、自分を超えた霊的存在であることを受け入れない。パウロも神と律法の専門のパリサイ人であり完璧と自覚しキリストを迫害したが、キリストに出会い霊の目が開かれた瞬間、自分の高慢、罪深さに気付き、全く砕かれ伝道者となった。十字架の言こそ神の力であり真実自分の求めているものであったことに気付かされたのである。今年度は常識を越えた「山をも動かす信仰」が課題である。




















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# by oume-akebono | 2017-04-02 15:30 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 8章26節)   大谷唯信牧師



「御霊もまた同じように、弱いわたし達を助けて下さる。なぜなら、わたし達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたし達のためにとりなして下さるからである」



人は本当に追いつめられ苦しくなるとうめきしか出なくなる。もう言葉にもならないのだ。祈りも信仰も、何もかも、空しく絶望の闇となる。その死と恐れの嵐に翻弄されている最中にも耳もとで「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の声と「わたしはあなたと共にいる」、極限の時に必ず聞こえて来る声である。



何も出来なくてもただ思いの中でその声に委ねてみるとよい。その思いを持つ事は死の瞬間でも出来る。自分が死んだ状態に、何が何だかわからなくてもいい、自分の存在そのものをただ上を見上げて委ねる。身を投じる感覚であろうか。勇気、悔改め、そんな格好いいものではない。惨めで見っともないままである。闇の中に身を沈めたまま動けない状態である。突然に光に変ったのだ。自分の中が泉となって湧きだし生きているものと死んでいるものとが見えるようになった不思議な感覚だ。



以来、御言葉のメッセージがそのまま本当だとわかったのである。人を生かすのは知識や物ではなく霊であって肉は何の役にも立たないのだ。キリストが注いで下さる十字架と聖霊が生かして下さるのである。人は神に造られた霊的存在だからである。人は土から生まれ土に還る。「主なる神は土のちりで人を造り命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(2:7) 神の息とは霊である。生きた者となったとは魂が派生した事である。魂とは心であり知情意を持つ人間性、人格である。この心は霊が土台となっているのでだ。人は肉的存在である以上に霊的存在と言えよう。この霊に神の霊が注がれる時、生かされるのだ。主は御霊のとりなしによって常に働きかけわたし達を生きる者にされているのである。
















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# by oume-akebono | 2017-03-26 02:27 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 4章4節)   大谷唯信牧師



「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。」



子どもにパンを食べさせるのに、パンのおいしさ、成り立ち、作り方、その歴史等を教えるだけで、食べさせたと安心する者はいないと思う。食べる者も、それについて聞いただけで腹いっぱい食べた気になる者もいないであろう。ところが神の言となると聞いただけで食べた気になってしまう。その言葉の意味、解釈を聞いているだけなのに、食べた気になり、教えた者も、充分に食べさせた気になっているのではないか。



もしそうだとしたら大きな錯覚である。パンの場合はすぐにわかるだろう。子どもなどは説明より実際に手に取って口に入れ食べなければ、決して満足しない。赤ちゃんはおなかが満たされなければ泣き止まない。説明は全く役に立たないだろう。しかし、神の言はさらに説明し、学び、研究し、またまた食べた気になるまで学習する。これがニコデモ信者であり、富める青年信者だ。あとは何を言われても、「それは小さい時から知っています」となる。



これが知的学習の限界である。この世も知的情報の迷路にいるのだ。今や現代の諸教会の多くが、頭は脳溢血、体は貧血、心は飢餓状態で、動くに動けぬ重体になっているのではないだろうか。私達はこの現実の実態をもっと直視すべきであろう



連盟の教勢報告書を見ると、連盟には教会・伝道所が全国に325もある。礼拝出席の平均を見ると、10年前の2006年では44.2人、2015年になると37.6人で40人を切っているのだ。ここ数年はさらにひどく2014年の年間礼拝出席者の合計の平均人数は13,520人であったが、2015年では12,225人。何とこの一年間で1,295人もマイナスになっている。受浸者も全国で455人が一年後の2015年には369人、つまり86人マイナスとなっている。



今年も7月になると2016年度の報告が出るのだが、実に心配である。この世の力は使徒時代から強大であった。しかし、キリストは教会に勝利を与えられている。私達は信仰によって勝利を受け取り前進できる。

















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# by oume-akebono | 2017-03-19 02:17 | 週報メッセージ

(使徒行伝 1章8節)        大谷唯信牧師



「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて…地の果てまで、わたしの証人となるであろう」



主の計画はわたし達一人ひとりを「主の証人」にすることである。このことはクリスチャンであれば、当然のように理解していると思う。そこでそれをもう少し明確に捉えてみたいのだ。



私達はどのように主を見、意識し証人になろうとしているのだろうか。これは最も信仰の土台となる所であるから自らを明確にしておく事が必要だと思う。



「わたしはキリストを救い主として信じます」と信仰の告白をする。その時、証人としての責任も多少あると思う。そこで当時の弟子達の証人としての告白内容を見てみよう。「このイエスを神はよみがえらせた。そして、わたし達は皆その証人なのである」(使徒行伝2:33)「あなたがたは聖なる正しい方を拒んでいのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたし達は、その事の証人である」「イエスの名がそれを信じる信仰のゆえに…この足なえの人を強くしたのであり、…イエスへの信仰が彼を完全にいやしたのである」(使徒行伝3:14-16)又、「この人が元気になっているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺した主を、神が死人の中からよみがえらせたイエス・キリストの御名によるのである」(使徒行伝4:10)



即ち、「主の証人」としての告白は「よみがえりの主」、「死人からよみがえられた主」を告白する事にあった。「救い主」だけの証人では愛の人、優れた人、偉大な人のレベルであって理性的にも受け入れやすいが何の力もない。「主はよみがえられた」との信仰の告白にこそ理性を超えた信仰の霊的領域となって霊の火が燃え上がり神の力となっていく。よみがえりは理性と信仰が激しくぶつかるところだ。弟子達は復活の主に出会っても信じることができなかった。しかし主のよみがえりの告白にこそ聖霊が働いて下さる事を知ろう。


















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# by oume-akebono | 2017-03-12 05:06 | 週報メッセージ

各集会の御案内

私たち「青梅あけぼのキリスト教会」では、下記の集会が行われています。
どなた様のご参加も歓迎いたします。
どうぞお気軽においでください。

≪主日(日曜)礼拝≫  礼拝堂にて
  <第1礼拝>  午前9:30~10:30   
  <第2礼拝>  午前11:00~12:30
  <夕 拝>    午後7:30~8:30  

≪教会学校≫  幼稚園舎にて
  <小、中、高校生科>   ¬
  <青年科>        +- 午前9:30~10:30
  <成人科>        」

  <J-Switch> 午後2:00頃~
   小学校高学年~高校生の小グループでの分かち合い。
   季節ごとに、楽しいイベントもあります。

≪祈祷会≫   礼拝堂にて
  <水曜日>  午後8:00~9:00
  <土曜日>  午前7:00~7:30

≪その他≫
  <聖書に親しむ会> 毎週水曜日 午前9:30~11:00 礼拝堂にて
  <ベビーのためのあけぼのプレールーム> 
            2才未満の赤ちゃんと、お母さん・お父さんのための広場。
            毎週月曜日(休日除く) 午前10:00~12:00 幼稚園舎にて
  

  *プレールームのお問い合わせは、
        「あけぼの幼稚園」(℡0428-76-1577)までお気軽に。

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# by oume-akebono | 2017-03-11 23:21 | 集会案内

(エペソ人への手紙 3章16-17節)        大谷唯信牧師



「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように。また、キリストがあなたがたの心の内に住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活するように祈る」



御霊こそがわたし達の内なる人を強くして下さるのである。御霊に対する信仰を深めよう。「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。何故なら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」(ヨハネ14:17)と主は語られた。



現代の教会の多くが聖霊への信仰を失っている。御言葉も教会も聖霊によって与えられたのに。聖霊の助けなくして御言葉の命に触れることはできない。それは単なる文字、教訓となり、やがて古びてしまう。



「イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」(Ⅱコリント13:13)。これは、パウロがコリント第二の手紙の最後に記した祝祷である。即ち、主イエスの十字架の死と復活によっての恵みと、独り子イエスを救い主として与えて下さった神の愛が、聖霊との親しい交わりによって現実に豊かなものとされ、日々信仰の確信にまで導いて下さる感謝の祈りであろう。父と子と聖霊は一つの神であり、特に御聖霊は、神の霊なる命がわたし達の直面するすべての出来事、日々の生活そのものに満ち満ちている事実に、わたし達の霊の目を開いて下さる。慰めと平安に満たされ、神とキリストが観念的な過去からの知識のお題目ではなく、神の命の実体に触れさせて下さるのが御聖霊である。



どのようにすればそれが得られるのか。まずは御聖霊を信じ、親しく心に迎え、生活のすべての中で交わることだ。次に、自分の心の内を正直に開いて喜びも悲しみも語り、御聖霊に相談する。さらに、御霊の中に温かく包まれ御言葉を味わいつつ思い巡らし、キリストが自分の中に住まわれ、内なる人が強められ、大胆に歩んでいる姿を信仰によって見るのである。御霊への信仰が、すべてのものに神の命を吹き込むことを見るだろう。























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# by oume-akebono | 2017-03-05 23:10 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 4章4節)    大谷唯信牧師



「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」



イエスは人が生きるのに一番大切なものとしてパンと神の言葉を上げている。パンとは勿論食べ物の事であるが広い意味ではこの世で得られる金、地位、環境すべてであろう。とてもわかりやすい。しかしこれ以上に大切なものとしてイエスは神の言葉をあげられた。だが何の事かわかりにくい。神の側からの出来事であるからその重要性、必要性の価値がわからない。故に捨て置く事になる。



腹が空けばパンを求め食う。これは当たり前でわかりやすい。犬や猫、何もわからない子どもでもわかる。今や世界は奪い合ってもパンを食おうとしている。ちゃんと食えるようになれば一人前との考えもある。食えなければ半人前、未熟者と見られる。しかし本当にそうなのだろうか



イエスはパンを否定しているのではない。パンだけではないと言われた。これに関心を寄せる人はどれくらい居るのだろうか。この世のあらゆる問題はこれを抜きにしてパンだけで生きているが故に起きているのだが。



これを知っているのが私達クリスチャンでありこれを証しするのが私達の神からの使命ではなかろうか。



神の言葉は聖書に記されている。イエスがパンと神の言葉の二つを並べている意味は深い。パンを食べれば体は生きる。頭で考えてパンの成り立ち、成分、造り方を研究し理解しそれだけで食べた気になる人はいないだろう。しかし神の言葉に対してそう言う人が沢山いるのだ。神の言葉は命のパンである。真の食物、即ち霊的食物なのだ。食べれば霊が生きる。霊的な力が与えられる。もし力が与えられないとするなら知的に理解し暗記しただけで食べてはいないのだ。マンネリ化しても同じ事が起きる。日々御言葉を食べると、理解、教訓レベルではなく自分の自我そのものが罪という自覚に砕かれ霊が生き霊の主に触れる。こうして霊性が深められていくのである。











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# by oume-akebono | 2017-02-26 02:35 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章16節)   大谷唯信牧師



御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。




わたしたちの教会は必ず豊かに成長する。キリストの命である御霊が教会に注がれているからである。




神が与えた下さった独り子イエス・キリストも、十字架による福音の恵みも、わたし個人にではなく、わたしたち教会に与えられているのである。大きく言えば天地創造、アブラハムの選び、イスラエルの民の選び、そのすべての歴史、そして独り子イエス、十字架の死と復活、教会の誕生から現在のわたし達の教会までの歩みと今のわたし達の教会の在り方も、すべてが神の御手の中にある神の出来事であり御霊の導きにあるのである。決してたまたま起きた偶然の出来事ではない。すべてのものは、これ(キリスト)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(ヨハネ1:3)と聖書は語っているではないか。




私達の教会はさらに深く成長する必要がある。すでに与えられている恵みを「世の光」「地の塩」として世に仕えるためである。

だからと言って焦ったり思い悩む必要はない。御霊が押し出し促して下さるからである。




「御霊によって歩く」とは、常に信仰によって「主は我らと共におられる(インマヌエル)」と言う信仰で歩む事だ。




信仰は決してマンネリ化ではいけない。わたし達が救われたのはイエス・キリストを信じその信仰によって救われたのである。

この信仰は自分の中で明確にしておく必要がある。からし種一粒の小さな信仰であってもその根拠は自分ではなくキリストにあることを覚えよう。




ガラテヤ教会はパウロに叱られた。「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。 あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。(ガラテヤ3:3-4)と。

一所懸命であってもいつの間にか肉の働きに変わっていることがあるのだ。わたし達が教会である。教会と私達の成長は一つである。

御霊に歩もう。





















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# by oume-akebono | 2017-02-19 01:38 | 週報メッセージ

(箴言 4:23)          大谷唯信牧師



「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」



主は「心を守れ」と言われる。「心」と言うとわたし達は真心、豊かな心、また心を尽して等と美しい純粋なイメージが出てくるものである。確かに誰もがそのような美しいものを求めていると思う。たとえ少し足りなくてもある程度の温かい心、真実な心は持っていると自負している。


ところがそれがそもそもの間違いなのだ。サタンからの落し穴である。人生を狂わせ、世の中を狂わせている元凶なのだ。主は「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従って来なさい」と言われた。即ち、日々自分を捨て、日々与えられてくる自分の十字架を負って主に従う、そこに命の泉は流れ、その結果わたし達は命の泉を得たのではないか。これは自分を捨て自分の十字架を負った結果与えられた命である。それがいつのまにか前提になりそれを守り維持しようと自分の中で固まってはいないだろうか。知識は大切である。


しかし、「知識は人を驕らせ、文字は人を殺し」と命のないものに変化してしまう事に気をつけねばならないのだ。サタンはこの世に神の言葉を疑わせ否定し知識をアダム達に取らせた事は未だにわたし達にも向けられているのである。パウロは「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの経験をしたことは、無駄であったのか」(ガラテヤ3:3-4)と語っている。信仰による霊の出来事がいつの間にか知識による肉の出来事にすり替わっているのである。


どんなに素晴らしかった出来事、感動であっても過去になるとしだいに死んだ文字になってしまう。知識、習慣、伝統、経験、すべて大切なものだ。それが死に体になるから気をつけねばならない。「油断することなく」である。今迄の経験、知識を生かすには、これに頼るのではなく日々自分を捨て、十字架を負い主に従うことである。信仰によって常に霊の命を吹き込むのである。




















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# by oume-akebono | 2017-02-12 23:07 | 週報メッセージ

(マタイ 5:13-16)      大谷唯信牧師



「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である「あなたがたの光を人々の前に輝かし、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」



新年を迎え早くも二月を迎えた。正に「光陰矢の如し」を感ずる。私達の教会は皆様の祈りと信仰によってますますキリストの命ある教会としての成長を与えられている。何と感謝なことか。神は聖霊によってイェスをこの世に賜り聖霊によって教会を誕生させ、キリストの十字架の福音を私達教会に委ねられた。これが世界宣教の神のやり方なのである。私達は自分達を見て小さく弱い者と嘆いてはならないのだ。神が昔イスラエルの民を選んだ時と同じである。


「主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主があなたがたを愛し、あなた方を愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなた方がどの国民よりも数が多かったからではない。よろずの民のうち、最も数が少ない者であった。ただ主があなた方を愛しあがない出されのである」(申命記7:6-8)


神はすべての御計画を今や教会を通してなされる。もし教会が何もしなければ神の働きは止まってしまうのである。しかし信仰によってこれを引き受け教会のかしらであるキリストにつながり前進するなら神の豊かな御業を見ることになろう。


今年も連盟よりわたし達教会の祈りの課題を尋ねられた。私は常日頃示されている事を記して見た。「聖霊充満の教会」「セルによる相互牧会での成長」「全員が主の証し人」「毎週の礼拝は特伝」「礼拝150人」「受浸者15人」である。
私達は見せかけではなく「本物の信仰を求めようではないか。数や形ではない。富める青年、ニコデモ信者ではない。これは肉の上に御言葉を美しく塗り上げているだけだ。御言葉で外なる人(自我)をはぎ取るのである。そうすれば内なる光が放たれ内なる塩がとけ出し味わいある者とされ自然と証し人となるのである。
























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# by oume-akebono | 2017-02-05 23:07 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 10:17-22)   大谷唯信牧師



「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております。」



莫大な資産を持つ「富める青年」がイエスに応えた言葉である。「それらの事」とは「殺すな、姦淫するな、盗むな、父と母を敬え」。十戒の後半部分であり、当時のユダヤ人ならだれもが知っている、ごく常識的な戒めであった。青年は先に一つの質問をイエスにしたのだ。


それは社会問題でも、平和問題でもない。単刀直入に「永遠の命」の事であった。しかも「それを受けるには何をしたら」と真正面からの取り組みである。その態度、その問い、正に非の打ちどころのない立派さだ。その言動からは、小さい時から恵まれた環境で、高い教育を受け育ったことが窺われる。ところがこの青年の反応は、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」であった。即ち、その腹は「そんなことは、前々からわかっていますよ。他に何かないんですか!」である。


知識としての記憶だけなら、当然「それは知っています、わかっていますよ」となるだろう。自称完成してしまうのだ。知識教育の問題点ともいえる。だからまたすぐに新しい教訓が欲しくなる。この時、イエスがそのような教訓を与えたなら、彼は喜んで「わかりました!」と言うであろう。ここに私達や教会の、成長出来ない原因があるのだ。


イエスは何でもわかってしまうこの青年に、敢えて絶対にできないような課題として、「あなたに足りないことが一つある」と提案した。彼はその内容を聞くと、「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」。ということは初めて彼は本気で聞いたのだ。しかし、取り組まず立ち去った。自分にはとてもできないと思ったからだ。


イエスは全財産を人に施せ、と言おうとしたのではない。「あなたの足りないところを一つ」と言われたのだ。どんなに立派な人間でも、足りないところは一つや二つはあるであろう。その足りないこと一つが自分の殻を破り、救いを得させ、深める入口だと、教えておられるのだ。御言葉の先に自分の足りない所を照らし、その姿、その原因を正直に見る時、神と取組むことになるのである。
























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# by oume-akebono | 2017-02-01 18:39 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 1:3-5)   大谷唯信牧師



「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」




何と驚くべき事か。神はわたし達を天地の造られる前からキリストによって選んで下さった。それはキリストの愛によって神の子たる身分を授けると語るのである。それは何のためであろうか。自分の喜びのためだけではないのである。それは「子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるため」(エペソ1:6-7)なのである。


私達の教会は今、沢山の恵みを受けている。御聖霊が教会に注がれているからである。すべて御聖霊の出来事である事を覚えよう。恵まれた時、サタンは私達に入り込んでくるからだ。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」(エペソ2:8-9)


誇り、高慢は自覚症状がないから気をつけよう。そう言う積もりが全くないのに起きるのである。ちょっとした事でイライラしたり不満が出たり、ある人が苦々しく思えたり等のかすかな心の働きは肉の働きである。信仰年月の古い人も新しい人もサタンは巧妙に信仰や善意の中にすべり込んでくるから気をつけよう。油断してはいけないのだ。油断とは霊の油が切れる事である。パウロは言う「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラテヤ6:7)と警告している。私達の教会は今が大切な時だ。「善を行うことに、うみ疲れてはならない・・・」(ガラテヤ6:9)



















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# by oume-akebono | 2017-02-01 18:37 | 週報メッセージ

2016年 クリスマス報告

昨年(2016)のCS(教会学校)クリスマス会の報告を致します!

12月17日土曜日の午後にCS小学科のクリスマス会をしました。
今年の目玉はJ-Swichのこどもたちによるスキット
そしてみんなでパフェ作り!

讃美、ゲーム、スキット、メッセージ、最後にパフェ作りをして、
たくさんの笑顔がこぼれました。



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そして、小学科終了後、夕方からはCS中高科のクリスマス会!

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こちらは初の試みキャンプファイアーを囲んでの讃美と証しの時間を持ちました。
12月、とても暗くて寒い外でのプレイズでしたが、皆で火を囲んで静かなクリスマスの感謝の時となりました。
その後今年はスペシャルゲストとして小作台キリスト教会の井本牧師にメッセージをしていただきました。

最後は中高生が待ちに待ったクリスマスディナー!

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普段教会に来ている中高生が、たくさんの友達を招いての楽しい交わりの時となりました。















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今年も
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# by oume-akebono | 2017-01-21 16:55 | CS(教会学校)便り