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(マルコによる福音書5:34) 大谷 唯信 牧師
「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって達者でいなさい」 12年間も長血でわずらい苦しんでいた婦人に起きた奇跡の出来事である。重要な事は「婦人の出来事」から「神の出来事」に移行している事だ。今までの長い間、病と言う孤独な人生の戦いであったと思う。当然「自分の出来事」であったろう。「多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費やしてしまったが、何のかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった」と聖書は語っている。 これこそこの状況はこの世の姿、世界の時代の流れ、そしてそこに住む我々。現に我々日本の政治、経済、社会、教育の激動そのものではないか。それぞれの立場の人達は懸命にそれなりに努力し戦っている。しかしどうにもならないのが現状である。聖書は二千年前にすでにこの世の姿を「実に、被造物全体が、今に至るまで、共に産みの苦しみを続けている」(ロマ8:22)と言い切っている。 この婦人は家族に捨てられ、医者や友からも、やがて社会からも見放され…と言うより、誰もが何とかしなければと思いつつも手の出しようがなかったのではなかろうか。これがいつの時代でも人間社会の現実である。何とか手厚い援助を考えても、どんなに愛の手をさし延べても届かない局面が人間には出て来てしまう。高い目標、理想をかかげても「肉は肉」である事、「肉の思いは罪であり死である」事を認めないからである。 ところがここにイェスが介入し奇跡が起きている。「自分の出来事」から「神の出来事」に移行したのだ。イェスは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われた。即ち肉の世界から信仰によって霊の命の世界の出来事へ入り込んだのだ。どうであろう。今年度はすべての事を「神の出来事」に切り替える信仰に立つ事を課題にしようではないか。
◆寒暖の変化が激しいながらも春になって参りました。街々にも美しい花が咲き誇っています。皆様お元気ですか。共に礼拝出席を歓迎いたします。5月の連休を前にしての礼拝ですが、心からの賛美を主に献げ礼拝いたしましょう。
◆礼拝後のコーヒータイム、昼食等、良き交わりの時となりますので、どなた様も御一緒にいたしましょう。 ◆昼食後、本日は各会の集う日です。壮年、女性、青年、中高生等、各会毎の集いをいたしましょう。互にお誘いし、参加いたしましょう。 ◆9時半からの成人科、バプテスマクラス等の集いにご出席下さい。 ◆明日30日(月・休)は東京地方連合の総会が市川八幡教会で行われます。大谷牧師、森元副牧師、相山執事、兵頭執事が出席予定です。 ◆教会敷地内の雑草が暖かさと共に急激に伸びています。短時間でも草抜きの奉仕にご協力ください。 <本日の夕拝 午後7:30~8:30> コリント人への第二の手紙12:9~10 「主にあって弱さに徹する」 相山喜祈兄
(ガラテヤ人への手紙 1:12) 大谷 唯信 牧師
「わたしはそれを人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただ、イエス・キリストの啓示によったのである」 イエスが墓に葬られ悲しみの弟子達はイエスと初めてで会ったガリラヤ湖で漁をしていた。夜通し働いたが前と同じく何も取れなかったのである。そのときイエスは船近くの岸辺に立っておられた。弟子達はイエスとは全く気づかない。「船の右の方に網をおろして見なさい」との声がしてその通りにしたところ、おびただしい魚がかかり網を引き上げる事ができない程になった。仲間の一人が「あれは主だ」とささやくと、ペテロは主であると聞いてあわてて上着をまとい海に飛び込んだのであった。 それは今迄も見えてはいたのだ。しかし気づかなかった。それが突然気づいたのである。墓に来たマリヤも同じである。イエスの遺体がなく泣いているマリヤに「女よ、なぜ泣いているのか」とイエスに声をかけられたのだが、それがイエスだとは気づかなかったのである。「マリヤよ」と言われた瞬間に気づく。人から教わったのではない。気づくのだ。 イエスを迫害していたパウロも同じ経験をした。当時、人々はイエスに触れ教えを聞いていたであろう。しかしなんと多くの人が気づかずに通り過ぎていった事だろうか。ところがパウロは心でわかったのである。彼の自己紹介は「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらされた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」と大胆に語っている。 あの弟子達はその後、「さあ、朝の食事をしなさい」と言われるまま朝食をともにした。大切な事は「弟子達は主であることがわかっていたので、誰も『あなたはどなたですか』と進んで尋ねる者はなかった」(ヨハネ21:12)と言う事である。頭では半信半疑の思いが強いのだが心の奥では確実にわかったのである。この内的経験が内なる啓示なのだ。どう表現してよいかわからないが心でわかるのである。これに従うとき、平安と確信が与えられるのである。
◆お元気ですか。新年度を迎え子供達も幼稚園、小学校と新しい環境の中で頑張っています。皆、忙しいですがそれだけに今年もこの礼拝を大切にし、心からの賛美を捧げ神様からの祝福をお受けいたしましょう。
◆本日は午後昼食後、教会の定期総会が開かれます。昨年一年の活動報告と共に新年度に向けて相談をいたしましょう。教会は主にある神の家族です。互いに成長を感謝しさらなる課題を確認いたしましょう。 ◆礼拝後のコーヒータイム昼食等はよき交わりとして皆様と御一緒にいたしましょう。 ◆週に一度は主日礼拝以外の集まりに参加するようにいたしましょう。小さなグループの集いは互いに成長させていただくチャンスです。 ◆明日23日(月)は東京地方連合西地区の牧師会が調布キリスト教会で行われます。 ◆24日(火)は幼稚園ではあけぼの会があります。子育ての学びをいたします。御出席下さい。 <本日の夕拝 午後7:30~8:30> コリント人への第一の手紙15:12~20 「今、イエスは生きておられる」 谷口圭太兄
(ガラテヤ人への手紙 5:24) 大谷 唯信 牧師
「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」 新年度を迎え、新たな歩みに進もうとしている。教会の成長は私達の成長にかかっており、同時に私達の成長は教会の成長にかかっている。私達の成長なくして教会の成長はあり得ず、教会の成長なくして私達の成長もあり得ないという事である。 常に一番の課題は行事や活動ではなく、私達一人ひとりがどれだけ肉に対処しているかにある。肉は自己を中心とし、自分の力で行う。自分で考え自分で決め自分で行う。神に頼る必要も祈る必要も余り感じない。この世では普通のことだが、クリスチャンになっても同じ姿勢が続いてしまう場合がある。霊性がまだ成長していないからだ。霊性が成長してくると、「霊の思いは、いのちと平安とである」(ローマ人への手紙8:6)となり、安定して来る。同時に罪や肉に対して、目が開かれて来る。 だが新たな注意も必要だ。自分の肉や他の足りなさが目についてイライラしたりする。これを自分の力で処理しようとしてしまう事だ。力のある人ほどそうなる。結果的には相手を裁いたり、責めたり、肉の思いが次々と、自分の正しさを前提にパリサイ人よろしく出てくることになる。そして失速!この経験も決して無駄ではないが、いつまでもやっていることではなかろう。自己を中心とした肉の善は、イエスのものではないら、毒にはなっても力にはならない。何と多くのクリスチャンが信仰生活を自己の力でしていることか。 しかし、どれほどアドバイスをされても、実際に失速してみなければ中々分からないところでもある。パウロですら「・・・極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで・・・神を頼みとするに至った」(コリント人への第二の手紙1:8-9)と語っている。上の御言葉に「キリストに属する者は」とある。即ち、私達がキリストと教会につながり、全ての肉は十字架につけてしまったとの信仰に立つ時、主は力を与えて下さるのである。
◆梅と桜が今や満開となり、どこへ行っても美しく咲き誇っています。本日も皆様と心を一つにして主の御名を讃美し、礼拝出来ます事を感謝いたしましょう。
◆昨日は、故 相山知子姉の告別式が行われ、多くの方々が集い、お別れが出来ましたことを感謝いたします。この度は、納棺式、出棺式、告別式と三度にわたっての集まりになりましたが、皆様の祈りとご奉仕を心から感謝いたします。続いてご遺族の方々のためにお祈りください。 ◆あけぼの幼稚園では先週9日(月)2012年度入園式が行われ、17名の新入園児を迎えることが出来ました。皆様のご協力をありがとうございました。これからも続けてお祈りに覚えてください。 ・17日(火)9:30~ 父母と教師の会(総会) ・20日(金) 春の親子遠足 ◆次週は定例総会です。新しい出発となります。祈りつつ参加いたしましょう。 <本日の夕拝 午後7:30~8:30> ペテロ第一の手紙 1:3~9 「生ける望み」 森元國文副牧師
(コリント人への第一の手紙 1:18) 大谷 唯信 牧師
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」 十字架の言とは単なる教えや教訓では無く十字架のイエス御自身のことである。十字架のイエスは高い所から救いについて語った方ではなく、人々を救うために全人類の罪を御自身の身に引き受け、神の前に全き罪人として生けにえの小羊となって十字架の断罪を受けられ、神から完全に捨てられるまでにして、私達全人類の救いの道そのものになって下さった方である。 先週5日(木)午後6時17分、愛する相山知子姉(86歳)が慶友病院で天に召された。この出来事が実に自然であり、静かで平和で、言葉では表せないがそこにおられる家族も一人ひとりが、そしてその病院全体がとにかく平安に満ちおだやかなのである。悲しみは勿論あるがそれを大きく包み込み、亡きがらを前にして互いに愛し合い、生かされている感謝と喜びが静かに満ち満ちているのを皆が同時に味わっている感じである。これが主の恵みなのだ。信じる者への恵みである。 「彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」(ヨハネの黙示録7:16-17)の御言葉が出来事になっているのだ。 「滅び行く者」とは信じない者の事だ。彼らには目の前で人類救済の歴史的出来事が起きているのに、全く馬鹿馬鹿しい出来事だった。これは現代の我々の世界でも同じ事である。当時、律法学者達は十字架のイエスにかわるがわる蹴弄して「いま十字架からおりてみよ。それを見たら信じよう」(マルコ15:22)とののしった。本当に見たら信じるのだろうか。そんな事はあるまい。信じるとはもっと謙虚なものだ。疑ったトマスは復活の主とお会いした時、「我が主、我が神よ」と拝したではないか。「見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」
◆梅と桜が美しく咲く中、小雪が舞うほどの寒さが戻ったりで驚きです。今日も私達は感謝して心からの礼拝を捧げましょう。今日はイースター礼拝です。主の復活を覚え主を讃美いたしましょう。
◆先週4月5日(木)午後6時17分、相山知子姉が老衰のため天に召されました。御案内通り、6日(金)納棺式が教会で行われ、御遺体はそのまま礼拝堂に安置され、受難日礼拝が行われ、昨日7日(土)は出棺、火葬とが行われました。皆様のお祈りと励まし、ご協力を心から感謝いたします。告別式は今週14日(土)午後1時半より教会で行われます。御遺族のため覚えてお祈り下さい。又、御出席下さいますようよろしくお願い致します。 ◆総会資料の提出は本日迄となっております。どうぞまだの方は頑張って御協力下さい。 ◆明日9日(月)幼稚園の入園式があります。お祈り下さい。 ◆10日(火)女性会へアメリカ伝道チームが来訪されます。 ◆本日は美化デーです。園庭の整美をいたします。 ◆12日(木)ひよこ親子教室が開始されます。 <本日の夕拝 午後7:30~8:30> ローマ人への手紙 8:12 「御霊によって生かされる」 大久保真道執事
(ヨハネによる福音書 6:54) 大谷 唯信 牧師
「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きる」 十字架のキリストこそ天からの生きたパンある。今年も受難週を迎えたが、ただイエスの十字架の出来事を繰り返し見ているだけではいけない。この出来事を通して神が全人類になされた救いの御業、イエスの血と涙による命がけの行動が、実はこの私に向けられている事であると、まともに受けとめようではないか。 救いが、教理として当然知っているクリスチャンの常識になっていてはいけない。この世では、人はパンを得るために必死である。我々もそうだ。ますます社会は厳しい。理屈など言っていられないのである。 だからこそイエスはそれらを超越した無限な力を得させるために、「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。」(ヨハネによる福音書6:27)と語られ、しかもイエス御自身がその朽ちない食物、命のパンである事を明かされた。「永遠の命に至る朽ちない食物のために働く」これが無ければ一切の働きは空しい。 「わたしが命のパン、神はわたしにそれをゆだねられた」とイエスは語る。男は感激して「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか。」と問うたのである。この世は常に「何を、どのように?」との問いに答える事によって成り立っている。確かにこの世の事ではこの問いは大切だ。しかし、この男は「何をしたらよいのか」が分かれば自分の力で神のわざをする事が出来ると思っているのだ。 熱心に学び研究し行動するほど、わたし達も神のわざを行うことが出来ると思う。果たしてそうだろうか。イエスは答えられた。「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」と。神のわざはわたし達やあれやこれやと働くマルタには無い。イエスを救い主として信じること自体が、神のわざなのである。人が神のわざをするのではない。神が神のわざを行うのだ。聖霊の促しによって、ただ信じるのである。 イエスの十字架が古きわたしを取り去り、新しくされたものとして歩み出させる。その時、全てが神のわざとなり、朽ちない食物への働きとされていくのである。
◆4月を迎えました。梅もやっと咲き始めたようです。新学年を迎え、新たな出発の皆様には、心からお慶び申し上げます。
◆第一礼拝は親子礼拝となり、C.S.の子供たちの進級式・表彰式・教師紹介を行います。 ◆第二礼拝にて主の晩餐式を行います。独り子イエス様の十字架の苦しみを思い、私達の罪の許しを与えて下さったことを感謝いたしましょう。 ◆第二礼拝にて教会学校教師任命式が行われます。先生方のためにお祈りください。 ◆礼拝後のコーヒータイム、昼食等は良き交わりの時として、どなた様もご一緒にいたしましょう。 ◆昼食後、いずみ会が開かれます。会員の方々はご出席ください。 ◆今週は受難週となります。6日(金)午後8時より、受難日礼拝を行います。 ◆2日(月)午後4時より開催の東京連合伝道委員会に、大谷牧師が出席予定です。 ◆大谷万知姉は4日(水)~5日(木)一泊入院(高月病院)します。 ◆7日(土)午前7時より早天祈祷会を開きます。その後8時15分よりイースターエッグの準備をします。 ◆総会資料は8日(日)原稿〆切となります。ご協力ください。 <本日の夕拝 午後7:30~8:30> ルカによる福音書 22:39~46 「人類の罪を負われた主」 森元國文副牧師
(ローマ人への手紙 8:6) 大谷 唯信 牧師
「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安である」 肉に支配されているこの世では霊で歩もうとするや、あらゆる肉の抵抗と戦う事になる。肉で戦うのではない。御言葉を信じる信仰によって戦うなら神の勝利にあずかるのである。詩編を読むとよい。ダビデの信仰による霊の戦いぶりには圧倒されるであろう。どんな窮地に追い込まれようと、どんな逆行に立たされようと神への信頼はゆるぎなく絶対的な信頼になってさらに強められていく。 嬉しくても悲しくても、強い時、弱い時、もう何もかも信じられなくなってしまった時、ますますダビデは神への信頼を絶対なもの、生きている自分の命の大前提として位置づけていく。信仰が信仰を生み出す原理があるのだ。 「まず自分の内側を整える」とはこう言う事である。自分に今、信仰があるのかどうか、自分は肉なのか霊なのかを自分に問うのではない。そんな事はいかにも最もらしく見えるが、何の役にも立たない事を知るべきである。自分に不信仰、肉を見たなら直ちに自分から目を離し、主を仰ぎ見る事が大切なのである。 自分を整えてから主に従えとささやくのがサタンである。一歩も進めなくなる。のどが渇いたなら水を飲むではないか。「何故のどが渇いたのか。渇くとはどういう事か?」等といつまでも議論しているだろうか。「しかし、水にもいろいろあるが・・・」と議論は際限がない。「のどが渇いたなら水を飲むと当り前に知っている者でも信仰となると議論ばかりを延々として一向に飲まない人が増えている。そのうち議論をして何かを納得すると飲んだ気になってしまい、わかったような気になってしまうから困るのである。正にサタンの思うつぼだ。 こう言う時こそダビデは主を仰ぎ「主よ、わたしをあわれんで下さい。わたしは弱り衰えています。悩み苦しんでいます」。と祈っている。このようにして主はわたし達の内側を整えて下さり「霊の思い」へと深めて下さるのである。
◆三月最後の主日を迎えました。まだ寒さが続いておりますがお元気ですか。卒業式の次は入学ですね。何かと忙しい方も多いことでしょう。今日も共に心からの礼拝を捧げ主を賛美いたしましょう。
◆昨日は教師研修会が開かれ、一日学びと交わりのよい時を得ました。感謝いたします。これからもC.S.の働きのため、先生方のためにお祈り下さい。 ◆礼拝後のコーヒータイム、昼食等、良き交わりの時としてどなた様も御一緒にいたしましょう。 ◆本日は昼食後、各会の集いがあります。壮年、女性会、青年、少年少女とグループ別の集いです。それぞれ御参加下さい。 ◆尚、同時に子羊会が開かれます。小学生、下級、上級と別々に行います。 ◆今週31日(土)定例執事会が夜8時から開かれます。 ◆相山知寛兄が明日より3週間研修のため熊谷に出張します。 ◆定例総会は4月22日です。資料は4月8日迄に提出して下さい。 <本日の夕拝 午後7:30~8:30> テサロニケ人への第一の手紙5:16~18 「すべての事について、感謝しなさい」 大久保真道執事
(ローマ8:13-14) 大谷 唯信 牧師
「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」 人は常に死と生の分岐点に立っていると言えよう。仕事も順調で体も元気ならば死について等ほとんど考えないと思う。しかし、この度の東日本大震災は多くの人々が死の現実の重さを感じさせられたものである。 特に愛する人、家族を失った方の悲しみ、痛みは到底本人以外はわかるものではない。それほど愛する人の死への嘆きは深く重いのである。実際に死に直面しない限り、人は死にも生にも直面していないのだ。否、出来ないのではなかろうか。 ところが聖書のテーマは常に死と生に直面させる事にある。それも単に体の死と生だけではなく、魂の永遠の死と永遠の命についての真理である。死と生はその時が来てから取り組むのでは遅い。それでは間に合わないのだ。普段、元気な時から、仕事をバリバリしている時でも死と生に対しては正面から向き合わねばならない。死を超えた永遠の命の喜びと確信を持って生きる事こそ大切なのである。 聖書は「仕事が忙しくてそんな暇はない」と言う愚か者になってはいけないと諭し、「たとえ全世界を得たとしても自分の命をうしなったなら何の得になろうか」(マルコ8:36)とイェスは語られる。 上記の御言葉にも「死ぬほかはない」と「生きるであろう」と死と生について述べている。「肉に従って生きる」とは自分が中心で自分の栄光を求めての生き方である。この世では当り前の生き方であるがこれが問題なのだ。この世の乱れ方を見ればわかると思う。肉と言う我流では駄目なのだ。生きるには「霊によって体の働きを殺す」とある。「自分の命を得ようとする者は失い、捨てる者は得る」。 どうだろう、自分を手放し神に喜ばれる生き方に切り替える所から始めようではないか。
◆お元気ですか。今年は寒く梅もまだ開きません。新年に向けていろいろ忙しいかと思いますが、本日も皆様と御一緒に礼拝できますことを感謝いたします。心をつくして主を讃美いたしましょう。
◆本日の第一・第二礼拝は森元國文副牧師のメッセージで行われます。感謝と共にお祈りください。 ◆大谷牧師、大久保執事は本日、中野教会のメッセージの御奉仕に当たっておられます。 ◆本日はライフチャーチの宣教師マーク・バスビー御一家がアメリカ・アラバマ州バーミンガム市のペルハム第一バプテスト教会より5人の高校生とスタッフの先生2人を連れて参加します。午後もC.S.の公園伝道にも御一緒する予定です。みんなで歓迎いたしましょう。 ◆正親恵美里ちゃんとお母さんの欣子姉のために続いてお祈りください。 ◆今週20日(火)は、お弁当を持ち寄り梅の公園にて野外礼拝を計画しています。楽しい時をみんなで過ごしましょう。 ◆24日(土)は、C.S.教師研修会を開きます。 ◆去る16日(金)は幼稚園の卒業式が行われ16名の子供達が巣立っていきました。 <本日の夕拝 午後7:30~8:30> マルコによる福音書 4:30~32 「蒔かれた一粒のからし種」 谷口圭太兄
(箴言 3:5) 大谷 唯信 牧師
「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」 神は心から主に信頼するものは必ず祝福して下さる。どんな困難があろうが関係はない「主がまっすぐにされる」のである。あなたは主に信頼しているだろうか。何となくとか、習慣でとかではなく「心をつくして」である。それは意識して、信仰を持って、時には必死になって主に信頼を置く事である。「民よいかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ」(詩篇62:8)である。それだけ人の心は神から離れ、自分の知識や経験、この世の力に頼るのが普通になってしまっているのだ。 罪とはこの世の善悪の事ではない。神に頼らず、神から離れ、自分自身で歩む事を言う。人は神から離れては神の命はなく、エゴである肉の命しかない。それはどんなに繁栄しても死と滅びであるのだ。 一般的に神に頼むなど弱い人間のやる事と思われている。能力のある者、自分の力で成功し豊かな生活をしている者が神を求めるのは難しい。これが罪の巧妙な支配なのだ。しかも、彼らは態度も親切で愛情深く、謙遜で忍耐強い。人間としても我々クリスチャンよりも立派と思える人も多い。 では、何が問題なのか。実にこれは神からのものではなく、自己(肉)から出たものであるからだ。たとえ、どんなに良くてもそれは死なのである。「肉は肉であり、その思いは死であり、神に敵する」(ロマ8:6-7)ものである。だが私達クリスチャンでも、神によっての集まりでありながらいつの間にか自己に立ち、自己の力(肉)で信仰生活をしていることがある。慣れてきたり自信をつけてきたりすると秘かな驕りがそうさせるのである。気をつけよう。「油断する事なくあなたの心を守れ。命の泉はここから流れ出るからである」(箴言4:33)
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